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大和十三仏霊場[長弓寺]、富雄駅〜王龍寺〜神武天皇聖蹟 鵄邑(とびのむら)顕彰碑〜白庭台

長岳寺から、まわり始めた「大和十三仏霊場」

前回伺った「霊山寺」と
富雄川でつながり、
北にある「長弓寺」へ。




「富雄」とは、
古事記には「登美」であり、
日本書紀では「鳥見」だそうだ。

そして「鵄(とび)」は
富雄の名前の由来、

「日本書紀」によると、神武天皇の軍が、トミオの豪族「長髄彦」の軍に苦戦していた際、「空が曇り氷雨が降り、黄金の鵄が飛んできて天皇の弓の弭にとまった。
その光で長髄彦の軍は目がくらんで戦うことができなくなった」とあります。富雄や鳥見の名称はこの鵄伝説に由来していると言われています。

奈良市HPより

2024年6月15日
8時半過ぎ、近鉄「富雄」駅着、




富雄川沿いを
北へ、

川沿いの道
良い風が通る。

曇天は
暑すぎず
ありがたい、

左折で
王龍寺への
石碑があるが
住宅地の道は
複雑そう。


Googleマップは、
少し先で、
左折を示している。

そのまま北へ、
少し歩くと

杵築神社の交差点を
左折、

ゴルフ場の間、
単調な車道を
西へ

途中、
Googleマップの道案内は
車道から
ゴルフ場の中の
道へ導くが、
距離は増えて
関係者以外立ち入り禁止だ。


少し悩んで、
引き返し
元の車道を歩くと

すぐに
案内あり
左折。

王龍寺

伝説によれば、古く聖武天皇の勅願による古刹とされております。現在の黄檗宗の寺院として体裁がととのえられたのは、江戸時代になってからのことです。大和郡山の城主であった本多忠平公によって、元禄二年に堂宇が整えられました。現在の本堂は、その当時のものを残しております。

王龍寺HPより

駐車場脇に、
山門

門の向こう、
くぐると

別世界。

開運道。


すぐ左には、
寿大明神

コジイ林、
初めて聞いた木の名前だが
シイの木?

薄暗い道、
ひんやりとした空気。

次に何が現れるか?
初めての場所
ワクワクする。

滝場には

お不動さん。

階段を上ると

丸窓の
本堂。

お堂は閉まっているが
中には明かり、

海瀧山 王龍寺は、
黄檗宗の寺院。

江戸時代、
中国(明)の時代、
日本につたわった
禅宗のひとつの黄檗宗。
京都府宇治市にある
黄檗山萬福寺が
大本山とのこと。


扁額は
王龍禅寺

お堂を覗く、

石の床、
立って参拝する。
あまり見かけない
内陣の
禅宗のお寺。

参拝。

祭壇の奥には
磨崖仏。
十一面観音、
右には
不動明王。



本堂の左へ

脇の道を上ると、

大黒天


下りて
さらに
左奥に池

戻り、
お堂の右へ
六地蔵さんの向こうは
墓地。


喪服の人も通る。

来た道を引き返す。

開運道、
外が明るい。
出口付近に人影、

美しい景色。

Googleで確認していると
境内には、
富雄の地名の由来と伝わる
鵄の名を冠する
「鵄神社」というのも
あるようだ。
自然林、
南北朝時代の磨崖仏。
上書きされる
黄檗宗の様式に
歴史の深みが生まれる。



来た道戻り、
信号を渡り
東へ。

杵築神社

正面鳥居の手前、
左には
祓戸。

古くは
牛頭天王を称し、
御祭神は
主神:素盞嗚命
相殿:天忍穂耳命
   市杵島姫命
   大国主命

本殿
参拝。


本殿左には、

さらに
左奥の
細い道を上ると、

枯れることのない
龍神池。

そして
龍王社
参拝。

富雄川沿いの道に
戻り
振り返る、
とても長い参道。

また、
富雄川に沿って
北へ。

しばらくすると、

出垣内のバス停
手前、
南側には

右折の道と
案内。

地域の方が
掃除中。

神武天皇聖蹟 鵄邑顕彰碑


紀元二千六百年奉祝の事業として
神武天皇東征の聖蹟を
顕彰するために建てられた
聖蹟顕彰碑。

長引く戦争による物資不足を反映して、参加者への接待も簡素化され、また行事終了後に一斉に貼られた大政翼賛会のポスター「祝ひ 終つた さあ働かう!」(現代日本語: 祝い終わった さあ働こう!)の標語の如く、これを境に再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活はさらに厳しさを増していくことになる。

今年は、
神武天皇即位紀元2,684年、
たかだか84年前の出来事。

いろんな思惑が
あったのだろうと
思ってしまう。



鵄邑(とびのむら)とは、
金色の鵄が、
神武天皇の弓先に止まり
長髄彦を討った
場所のことだ。

西暦紀元前663年(天鈴55年)、のちに神武天皇として即位する神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)は、この地を支配する豪族・長髄彦と戦った。磐余彦尊が苦戦するなか、急に空が暗くなり、雹が降り出す。
その時、金色の鵄(とび)が飛来して弓先に止まり、神通力を得た磐余彦尊は長髄彦を討って勝利を収めた。
この様子を見た人々は、当地を鵄邑(とびのむら)と名付けた。後世、鵄邑は鳥見郷または鳥見庄と呼ばれるようになり、さらに変化して富雄村となった。
ただし、地名の由来となった神武天皇聖蹟碑は富雄町ではなく、隣接する生駒郡北倭村(現・生駒市)に存在する

Wikipediaより



その奥に
進むと
また、地域の方が
綺麗に
掃かれている最中。

天忍穂耳神社

天忍穂耳命とは

天照大神と素戔嗚尊の誓約で生まれた五皇子の長男。
弟に天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野櫲樟日命がいる。
高皇産霊神の娘である栲幡千千姫命との間に瓊瓊杵尊をもうけた。
神武天皇は玄孫にあたる。

Wikipediaより


参拝。

戻り、
富雄川沿いを
さらに北に
しばらく歩くと
右手に鳥居。


長弓寺

奥に行くと
紫陽花の季節、
たくさんの
家族連れ。

境内奥に国宝の本堂が建ち右側(東)には伊弉諾神社、薬師院、左側(西)には円生院、法華院、南には宝光院地蔵堂がある。長弓寺本寺には住職がなく、薬師院、円生院、法華院の3つの塔頭が輪番制で本堂を護持している。

Wikipediaより


伊弉諾神社

参拝。




国宝の本堂は
鎌倉時代の
密教仏堂の
代表作とされる。


聖武天皇の勅命により
行基が開山。

霊山寺と同じく
奈良の東大寺建立プロジェクトのペアだ。

奥には


戻り、

正面、

参拝。

左には
大師堂?
参拝。

大和十三仏霊場
こちらは、
勢至菩薩さんがご担当

阿弥陀三尊の右脇侍。 『観無量寿経』の中には「知恵を持って遍く一切を照らし、三途を離れしめて、無上の力を得せしむ故、大勢至と名づく」とあり、火途・血途・刀途の三途、迷いと戦いの世界の苦しみから知恵を持って救い、その亡者を仏道に引き入れ、正しい行いをさせる菩薩とされる。

Wikipediaより


役行者石仏


薬師院にて、
御朱印をいただく。


富雄川を
西に渡り、

蛇喰橋西詰、
「じゃはみ」とは
蛇に喰われたのか?
蛇を喰ったのか?
ここで
何があったのだろう?

しばらく歩き、

12時前
近鉄「白庭台」駅

「白庭台」の地名は、古代神話の物部氏の祖、饒速日命に関係する鳥見白庭山に由来する。これは、日本書紀に記載されている。1940年代に以下の状況を根拠に、当時の日本政府からこの地が「白庭山」であるとの認定を受けた。この地から北方2km程の場所(磐船神社)に、饒速日命が降臨した際に用いたと伝わる磐船が存在する。この地に「白」の字が同じ「白谷」集落があった。

Wikipwdiaより

神武天皇と長髄彦。
ここからは
饒速日命の関係する
神話の世界か現実か?

紀元二千六百年事業があって
当時の日本政府が認定。
そして戦後の揺り戻し、
何が本当なのか?

妄想するには、
真実が必要。
歩いて、
考える。

ありがとうございました。











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