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|低山ハイク|大国見山コース・桃尾編、桃尾の滝、竜福寺跡〜大国見山(桃尾山)〜岩屋の磨崖仏

2024年5月11日
JR「天理」駅から石上神社までは、
以前の記事、大国見山コース•布留編に

石上神社から少し歩くと、笛の音が聞こえてきた。


桃尾の滝

 桃尾(もものお)の滝は、布留川(ふるがわ)の上流桃尾山(もものおさん)にあり、高さ約23m、大和高原の西端を南北に走る春日断層崖の中では最大の滝です。 
 このあたりは、かつて桃尾山蓮華王院龍福寺(もものおさんれんげおういんりゅうふくじ)の境内地でした。和銅年間、義淵(ぎえん)によって開かれた龍福寺は、中世には寺領五百石を有する真言密教の大道場として栄えましたが、明治に入って廃絶し、かつての阿弥陀堂跡には現在報親教大親寺(ほうしんきょうだいしんじ)の堂が建っています。 
「布留(ふる)の滝」として古い和歌集にも詠まれた桃尾の滝は、古くから行場として知られ、7月第3日曜日には、夏の安全を祈願して「滝開き」の神事が行われます。

   今はまた 行きても見ばや 石(いそ)の上(かみ)
        ふるの滝津瀬(たきつせ)跡をたづねて
                     (後嵯峨天皇)
                           天理市

案内板より

 滝の落差は約23mあり、盆地東麓の春日断層崖に沿う滝の中では最大の規模です。滝からさらに登った場所には古来からの名刹、竜福寺があります。寺が隆盛を極めた頃、この桃尾の滝は行場として利用されていたようです。

天理観光ガイドHPより

道路側入口付近には東屋があるが、
そこで笛の練習中の方有り。


あまり近づけないので、奥の方へ。

左側沿いから滝の側に、

如意輪観音

不動明王

滝の奥には、お不動さん。

落ちる水は、
光を含み
「布留(ふる)川」を流れて、
石(いそ)の上(かみ)へ。


2018年、
2010年にも訪れていた。

2018.3.18

道路側には、
白龍大神

2010.1.11

道路側には案内板

案内に沿って、
奥へ向かって歩く。

途中、石仏多数有り。

写真を撮っていると、
子供が一人、あいさつ。
後からお母さんが、
追いかけて上っている。

歩きやすい道、

途中の分岐を
右側の道を上ると

桃尾山 蓮華王院 龍福寺跡(大親寺)

苔むした緑の広場、
ここもまた空気が違う。

竜福寺は、
奈良時代初期に
義淵(ぎえん)が小堂を建て、
約20年後
行基が義淵の後を慕ってこの地を訪れ、堂塔を建立。
その後、その堂塔は荒廃したが、
約80年後
弘法大師が真言密教の大道場に再興したが、
明治時代の廃仏毀釈で廃寺となった。

 竜福寺は、桃尾山蓮華王院(もものおさんれんげおういん)竜福寺と称し、十一面観音菩薩像を本尊とする真言宗高野山派のお寺でした。
 「桃尾寺記」によると、奈良時代(和銅年間)に義淵(ぎえん)僧正がこの地に至り、小堂を建てたのが始まりとされています。
 竜福寺は義淵が建立した竜蓋寺(岡寺)、竜門寺(廃絶)と共に「大和の三大名刹」「大和三竜寺」と呼ばれていたそうです。
 建立から約20年後の天平年間には行基が義淵の後を慕ってこの地を訪れ、堂塔を建立しました。しかし、後にその堂塔は荒廃し、約80年後の天長年間に弘法大師が訪れてその様を嘆き、新しく精舎を興して真言密教の大道場に再興しました。
 当時の伽藍は、東西1,100m、南北660mと広大で、16の僧坊がありましたが、明治時代の廃仏毀釈で廃寺となりました。

天理観光ガイドより


大和桃尾山 大親寺
ここは現在、大親寺となっている。

お堂内より、
通信販売のテレビ(ラジオ?)が聞こえていた。


不動堂、2010年の様子


以前、ここに
大親寺の書き置きの御朱印が、
置いてあった。
お堂の左からの道を進む。

多様な仏像が並ぶ横を抜け、
ややこしい足元が続く。

壊れそうな木の橋もあり

この辺りから道が良くなるが、
急坂に。

この案内から頂上までは、
折り返しの分岐点。

メタリックな甲虫、

左回りで

上る、上る、

岩と岩の間を抜けると、

大国見山(桃尾山)

頂上、参拝。

標高500m


頂上は狭いが、平地になっている。
先客は先程の親子と、もう1組が昼食中。

見晴らしよし

昼食、11:45
コンビニで買った助六寿司とバナナ

御山大神


以前の様子

2018.3.18

正月明けは、しめ縄もあった。

2010.1.11

全てが磐座?
しめ縄があると、世界は緊張する。
神々しい風景。

2010.1.11

磐座

日本に古くからある自然崇拝(精霊崇拝・アニミズム)であり、基層信仰の一種である。神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代(神籬という)と神威をもって祭祀の中心とした。時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、元々は古神道からの信仰の場所に、社(やしろ)を建立している場合がほとんどなので、境内に依り代として注連縄が飾られた神木や霊石が、そのまま存在する場合が多い。

Wikipediaより


違う道筋を下る。

これは、
磐座にならないのか?

大きく右折、天理方向


後は、サクサク下っていく。

山を抜け、
トンネルをくぐる。

西へ

天理市に入る標識、
いつの間にか
奈良市に入っていたようだ。

振り返ると、標識は奈良市

しばらく歩くと
造り酒屋のある、岩屋の集落。

弁財天の石碑には
以前、室生寺で見かけたような(杉?)塔婆
そこに書かれている言葉

弁財天女

広大慈恩
天下和順 
日月清明 
風雨以時 
災厲不起 
兵戈無用

書かれている文字を拾って
検索すると、
京都の知恩院布教師会HPの法話にあった。


広大な慈悲にすがり
天下が太平であり、
日も月も清く明らかに照らし、
風や雨は時に叶い、
災害や疫病は起こらず、
戦争の武器は用いることなく

という意味らしい。



次には、
花が備えられた石仏

塔婆が2本
右:地蔵講中家内安全祈祷敬白
左:奉修南無青面金剛童子広大慈恩

お顔がないので、よくわからないが
涎掛けがあるのが
右の
お地蔵さん?

大きな石板は
左の
青面金剛=庚申さんだろうか?



そして、
岩屋の磨崖仏
3mほどの岩肌に1m程の不動明王を
線刻されているそうだが
よくわからない。

木が生い茂っている。


2010の様子

2010.1.11


集落を抜け
名阪国道の土台(橋脚)には
大小様々な植物が隙間に根を張っている。

新しい庭園の提案のようだ。


途中、右側に
広い森のような公園のような場所
の脇を歩く。
天理教教祖墓地だそうだ。

抜けると
天理の街が見えてきた。

特徴的な建物

2時過ぎ、JR天理駅着

駅構内の柱、
どこからのメッセージか
記載がないが
よくわかる。

「おぢば」とは
天理教教会本部の最も中心である
「神殿」中心(ぢば)のことだそうだ。
親里・ぢばへ足を運んで参拝することを、
「故郷へ帰る」という意味を込めて
「おぢばがえり」というそうだ。

「あしきをはろうて、たーすけたまえ、
てんり(ん)おうのみ、こ、と」
というフレーズ、
なぜか忘れたけれど
今も、そのリズムとメロディを覚えている。
奈良県で生まれ育ったからか?

調べると、
漢字表記を初めて見た。
「悪しきを払うて助け給え天理王の命」
教祖の教えではなく、
人間思案から生まれた
ご利益を願う祈りだそうだ。



石上神宮があり、
布留遺跡があり、
義淵、行基、弘法大師が訪れ
山頂には御山大神、磐座が並び
天理教のおぢばがある。

とまあ
物理的に神話的にも
信仰が階層になった場所、
宗教都市天理。
興味深い、


ありがとうございました。



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