仲間と集団-ハラスメント(5)
ハラスメントやダイバーシティなどの仕事の依頼が多い。ついにDEIのお話もきた。
それらはいうまでもなく、大切なことだが、概念的な話を過剰にしたり、歴史の話、数字の話をするのは少しズレている気がするし、大切さを切々と訴えるのも、当社はこんなに悪いとホラーストーリーで語るのも筋が悪いように思う。
ということで、今回はもうすこし手前のことを書きたい。
まず、そもそも論として、仲間とはなにかというのがある。(早速概念論だけども(笑))
仲間に対して酷いことをしたいと思う人は少ない。
しかし、いじめやハラスメントは集団の中で起きる。なぜか。それは、仲間と集団は異なるからだ。集団の中にいる仲間でない人との間でハラスメントが起きやすい。(当然、他にもあるので、それは追って書く。)
では、仲間と仲間でないを分けるものは何か。
まず、1つ、人と人が親しくなることについての研究がある。認知心理学者のフェスティンガーによるものだ。フェスティンガーは、熟知、類似、近接を親しくなる要件として挙げた。
相手をよく知っていること、相手と似ていること、そして接点があることである。
コロナ禍の職場や学校などでは接点も減り、知る機会もなく、伴って類似性に気づくことも減っただろうから、親しくなりにくくなっている。
仲間がいないと孤立、仲間が少ないとそこの間の濃密な関係により、依存関係が生まれたりすることもあるから、やはり関係は必要で、だから今はバックトゥオフィスの大号令なのである。
zoomの社長も出社しろといっている。
話を戻そう。
この類似性が、実に厄介な人の業なのである。実は異質性も親しくなる上での要件ではあるのだが、類似性よりも相関が低いそうだ。
これはどういうことかというと、人は似ている属性がある人と仲良くしたい。だから、同質的集団ができやすい。
僕の職場は、ベンチャーというのもあり、多様な性別、学歴、職歴、国籍、宗教、年齢や趣味、専攻の人がそれはもうカオスに散らばっているが、少なからず、自分が国籍豊かな環境に身をおいた経験が影響しているように思う。
ただ、そうでない場合、比較的同質的な集団が今もあり、そこでの異質性を理由にした排除が起こることがありうる。
わかりやすい例としては、「みにくいアヒルの子」がある。色の違うアヒルは同質的集団で排除され、別な同質的集団に溶け込む。見にくいアヒルの子に多様性はない。
日本人の行動原理は「和」だと聖徳太子も言っているので、和を乱しかねない異質は排除されがちだ。だから、実はここに教育ニーズがあるのだと見ている。
長くなってきたので、次回は別なところに書きます。次回以降は、この教育ニーズに応えるには、また、なぜアサーティブコミュニケーションがハラスメントと関連付けされやすいかなどについて扱います。
なお、ハラスメントやダイバーシティについては、過去にも書いているので、以下に貼っておきます。
▼ダイバーシティ
▼ハラスメント(連作)
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