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叱るの効果は薄い-叱る(1)-

「叱る依存が止まらない」を読んだ。


読んだ理由

このところ、Z世代周りの研修企画や、ハラスメント研修などで講師をすることが増えている。その際に「叱るべきところは叱るべき」という話が出て、議論になることがある。

自分も実務でのOJTはそのスタンスでやってきたけれども、プラスに働いているのか正直わからない。

人を叱るのは嫌だ。ストレスでしかないし、叱る必要がある場面が多いと叱りすぎたり、叱ることが癖になってしまうことがある。そうしたときは日々自己嫌悪があり、自分のモチベーションも下がってしまう。

そして、そもそも僕自身が少しでも人から何かを言われると、(見た目にはわからないかもしれないが)疲れ切ってしまう。そうしたところの理解を深めたかった。

「怒る」も「叱る」もある意味では同じ

怒ると叱るの違いなどはよく語られる。「怒るは自分のため、叱るは他者のため。」「怒るのはだめだけど、叱るなら良いのだ」と。

怒ろうが叱ろうが、両者ともに攻撃性がある。それが相手、更には周囲にネガティブ感情を生むことには差がなく、どれだけ怒りをマネジメントしようが、ネガティブ感情を与えていたら意味がない。

怒られている側も叱られている側も、強度が違うだけで内容が同じであれば、両者には気休め程度の差しかない。

怒る、叱るで人は動く、ただし一時的に

本書では、問題行動には叱っても良いが、「効果はない」とする。また、副作用の大きさを指摘する。

叱るには人の変化、特に行動を促す側面がある。叱るは罰だ。罰は権威に基づいて執行され、他者を操作できる。権力の行使は、3大欲求の一つだから快感だ。

他者が叱って動くことは、叱り手には甘美な成功体験となる。叱ることで報酬が与えられるのだ。そして、人は成功体験というフィードバックがあると行動を繰り返す。

メンタルモデルに「苦しまないと人は変わらない」があるから叱ることが選択される。そして、それがなくてはならないもの、つまり中毒を生む。

叱りには学習効果がほぼない

では、叱られた側は望んで動いているのだろうか。本書では、脳科学にも言及する。扁桃体は苦痛が予想される際に恐怖反応を引き起こし、島皮質が苦痛そのものに対応する。つまり、叱られたら不快を避けたくなる。だから動くのだ、一時的に。望んで動いているわけではない。痛みからは、逃げるなどの回避をするのが普通だ。

しかし、叱られると人は守りに入る。学びはある意味では攻めだ。守りながら攻めるのは難しい。

身体の痛みと心の痛みに対して、脳のメカニズムは共通らしい。ひどい言葉を投げつけられると、殴られたのと同じショックを受けるのだ。また、仲間はずれなどでも。

厚労省の定めたパワハラ6類型には、精神的攻撃や人間関係からの切り離しがある。納得だ。

また、痛みを与えられないように目立つのを避ける。以下は、先日読んだ「炎上社会を考える」という本だが、ここでも炎上を避けるために目立たない心理性が書かれていた。

この心理からわかることは、今の世の中には心理的な痛みが多いということではないか。体罰は減ったが、それが心理的な罰に形を変えているのかもしれない。

中毒症状

叱って動く成功体験はまた叱るという行動を生むが、叱られた側はそれに慣れる。いちいち反応していたらきりがないから軽度な刺激には無反応になっていく。これを馴化という。

そうすると、甘美な体験が得られなくなった叱り手はエスカレートする。まさにパワハラのメカニズムと同じだ。更に強く言う、人格否定する、暴力を振るう、そうなっていく。本書の表紙にある、「殴ってもわからないやつはもっと強く殴ればいい」が生まれるわけだ。

人を育てたいと思う人ほど、変化を期待して叱る。そのマインドセットにはやはり「叱れば変わる」がある。

叱っているひとを叱るのも良くない

当社のハラスメント研修では、第三者介入というのを採用していて、研修参加者をハラスメントの潜在的加害者という立場を取らない。それは、潜在的加害者と見なすことが、叱ることと近い攻撃になるからだとも捉えられる。

ではどうすれば良いのか。長くなったので、2回目に書こう。

次回はこちら。

※久々のnote。病院で書いていたら長文になった。

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