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海辺の街でつかまえて

 どいつも、こいつも、くだらない。

 これは、映画『お嬢ちゃん』のキャッチコピーですが、こういう風に思ったことがある人、いると思います。僕も、ちょうど主人公のみのりと同じ年代の頃、思ってました。

 三鷹の安アパートに住み、ボロい古着を着て、安い時給のアルバイトをして、一日一日をなんとか食いつないでいく生活。
 晴れた夏の日、玉川上水沿いを歩き、バンドの練習スタジオのある吉祥寺へ。井の頭公園の木陰を、蝉しぐれの雨の中歩く。同年代の大学生グループが、飲み会の話で騒ぎながら歩いている。横一列に並び、ゆっくりと歩く彼らの後ろで、僕は思いました。
「どいつもこいつも下らない」
 しかし、心の底では気づいているのです。自分という存在の滑稽さを。自分という存在のくだらなさを。無力で無知で愚かで恥知らずな自分を肯定するのは難しい。夜中に胸を締め付けられることもしばしば。そんな時に、僕は繰り返し読む本がありました。それは、J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』でした。
 映画『お嬢ちゃん』を見て、そんな時代のことを思い出すとともに、過ぎ去ってしまった時代だと再確認をして、寂しくもなりました。

 いや、こんな個人的な思い出なんでどうでもいいですね。瑞々しいオリジナリティの輝きを持ったこの映画について書きましょう。

 映画『お嬢ちゃん』は、非常にシンプルな映画。おそらくですが、監督は言いたいこと、表現したいことを強固に持っていて、映画にするにあたり、無駄な部分を削ぎ落とし、ミニマルに突き詰めているのだと思いました。
 自分ができることを認識し、突き詰めて創作する。実は結構難しいことです。例えば「できるだけ多くの人に届けたい」と思うだけで、その思考はノイズになりえます。失礼かもしれませんが、二ノ宮監督にはそんな考えはなく、劇中のみのりの言葉を借りるのであれば、「寂しそうにしている人のそばにいてあげたい」という考えのもとに創作しているのかな、と僕は思ったのです。

 不機嫌な顔のみのりは度々人に物怖じせずに食ってかかります。自分よりも背丈の大きな男に対し、ギラつく眼差しで見上げ、納得できないことに対し「ノー」を突きつけます。
 本当は僕も、みのりのようにありたかった。しかし、あんな風にできなかった。納得できないことも、なんとか飲み込んで、口をひん曲げて笑顔を作り、やり過ごしてきました。でも、みのりのように言える人なんて、そうそう居ないのではないのかな、と思います。もしかしたら監督もそうなのかな。

 映画の半分を占める、暇人たちのあまりにくだらなさすぎる会話劇。それらもまた、僕にとっては自身の投影のように感じました。だって、ああいう悪ふざけや悪ノリ、くだらない話、してきましたよ。すごいリアリティだった。本当によく人間を観察してるんだな、と感嘆しました。

 この映画で映画描かれているのは、くだらないやつら(悪者)VSみのり(正義)という単純な構造ではありません。
 自己に内包する様々な一面や矛盾を、登場人物が象徴しているだけだったのです。少なくとも僕にとっては。

 そんな中、一人だけ異色の登場人物がいます。それは、パチプロのおじさんです。ニヒリスティックなみのりも、彼にだけは積極的に話を聞こうという姿勢は見えます。彼は、みのりに「大数の法則」について話します。

 大数の法則とは、簡単に言うと、確率論の定理です。例えば、コインを10回投げても、表が出る確率は50%にならない可能性を多く含んでいます。しかし、1000回、100000回と母数が増えていくことで、表が出る確率はより50%に近づいていくようになり、平均化していくのです。

 これは、みのりのような時代を過ぎ去った大人だからこそ言える人生観のように僕には聞こえました。いろんな経験をして、人生の時間を積み重ねていけば、成功も失敗も、痛みや喜びも平均化していくのです。だから、ずっとしんどいわけではないのです。この定理こそ、みのりが必要している言葉だったのでしょう。
 ただ、そんなことを言える大人になった自分が、ちょっとつまらないように思えます。監督も、自分に対するそんな眼差しを持っているのでしょうか。

 前述の『ライ麦畑でつかまえて』における主人公ホールデンがみのりだとしたら、ホールデンに重要な教えを話すアントニオーニ先生は、あのパチプロです。そして、作者のサリンジャーは、二ノ宮隆太郎監督です。
 ホールデンは「ライ麦畑の捕まえ役」になりたいと話します。背が高く視界を遮るライ麦が敷き詰められた畑で、崖っぷちに立ち、崖から落ちそうな子供をつかまて助けてあげる、というのが「ライ麦畑の捕まえ役」です。

 これは、自身の様に精神の深淵に落ちて(堕ちて)しまう子供を助けてあげたい、ということのたとえ話だと僕は思っているのですが、僕はその精神に近いものを『お嬢ちゃん』から感じました。(そういえばみのりが文字通り落ちるシーンもありますね)
 海辺の街で、精神の海岸から落ちていく子供の捕まえ役。それは、劇中みのりが好きなタイプを聞かれた時に、「寂しそうな人には一緒にいてあげたい」という言葉と呼応します。

 この映画は、決して万人に届かなくても、みのりのように、世界や自分を含めた人間に対して「なにもかもくだらない」とニヒリズムに陥った(または現在陥っている)人の捕まえ役になりうる、寄り添う映画だと思いました。そんな人にとって、この映画はきっと忘れがたい深い印象を残す、唯一無二の作品になるでしょう。僕のように。

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