「夏物語」 子供を産み育てるということ
川上未映子さんの「夏物語」を読んだのは、育児休暇中だった。中々寝ない0歳の娘を抱っこ紐で抱っこして、ゆらゆら寝かしつけながら読んでいたのだ。
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処女作のあと中々次の作品を書けないまま東京で一人暮らしする作家の夏子は、30代後半に差し掛かり、自分の子供に会いたい、と思うようになる。しかし、彼女は恋人もおらず、結婚したいというわけでもない。ただ、「自分の子供」が欲しいのだ。そんな中、精子提供で生まれ、父親を探す逢沢という男性に出会う。
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私自身、子供が欲しい、と結婚する前から漠然と思っていた。しかし結婚して一年以上子供を授からず、不妊治療に励み、流産も経験した。その後授かった子供を抱っこしながら読んでいたこの本。
「子供は生まれてくることを選べない」という言葉にはっとする。子供を授かる、という行為自体、親のエゴなのではないか。生まれてきて、悲しいことや苦しいことに出会わない可能性なんてないのに、それでも子供はこの世に生まれたいと思うのだろうか。主人公の夏子は、過酷な経験から「生まれてきたことを後悔してる」という女性に問われ、悩む。
確かに、と思った。私自身、この不確かな、不安定な時代にこれから生きていく我が子の将来を案じている。案じるくらいなら初めから産まなければ良いのか。
けれど夏子はこう言う。「それでも、会いたい、と思ってしまったんです。」
そうなのだ。うまく理由を説明することはできない。生きることは、大変だ。でも、会いたい。人間に残された動物的な本能だろうか。
けれど、大変なだけじゃない、生きるということで、幸せを感じる瞬間が確かにある、と信じたい。貴方に会いたい人が、この世で待っている、それは生まれてくる意味になるだろうか。
…けれどやはり、子供を産むということは親の勝手で、賭けなのだろう。子供がどのような特性を持って生まれるか、どのような環境で育つのか、誰と出会い、どんな不条理にぶつかり、どう感じるのか。すべてその時、その人にしか分からない。でもそれはすべての生物に言えることで、それこそ、「生きる」ことそのもののようにも感じる。
これから子供も自分も歳を重ねて、いろんな経験をすれば、考え方も変わるのだろうか。何年か先、またこの小説を読み直したいと思っている。
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