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所縁

「元気にしてるか?」とか「元気か?稽古してるか?」と1年に1度だけ、「元気か?」で始まる短いメールを送ってくる人がいる。
「よく笑い、よく食べてる」とか「最近はバネ指ビヨンビヨン」と、私も短い近況を送る。いつも1往復のやりとりだ。

高校を卒業してわざわざ都内の短大に通ったのに自分のやりたいことが見つからなくて、自分がやれることもわからなくて、イヤホンを耳に突っ込んで雑音から逃げて、私は不機嫌な顔をして渋谷の街を足早に歩いていた。大きな交差点のど真ん中で私の腕をつかんだのは、高校の剣道部のふたつ上の先輩だった。驚いてペコリと挨拶をして、学校に通っていて週末は地元のマリーナでバイトをしていると近況報告をした。

高校生活では勉強が嫌いだったが、実習授業が増えたのでわりと真面目に取り組んだ。友人たちは追試に追われてへこたれていたが、私は2時間近い通学の電車内で予習復習して、要領よく単位をもらった。時代が私たちをもてはやしたので、タクシーに乗ってランチに出掛けたし、渋谷も六本木もキラキラの武器をたくさん身につけて戦闘態勢で歩けば、ちょっといい席に案内をしてくれて、お店のサービスでカラフルなカクテルで乾杯をした。派手でやかましい時間に身を委ねている間は楽だけれど、家に帰ると怠さと眠さしか残らなかった。

朝早いマリーナのバイトはチェックインした船のオーナーの簡単な朝食を提供するところから始まる。そして、船内にパーティー料理やフルーツを届ける。船が出ていくと、カツやカレーを仕込む。日没後に船が戻ったときの食事の支度だ。
私はいつもマイルス・デイビスが流れるハーバーの隅のスピーカーの下に座って、ひとりで賄いのカレーを食べてジンジャエールを飲んだ。ジャジーなトランペットの音色は都会から来ている人々の笑い声や防波堤にぶつかる波音や大型の換気扇の音を掻き消してくれて、休憩場所にはもってこいなのだが、立て掛けてある釣りの道具は魚臭いし、フナムシが団体でシャリシャリと音を立てて横切っていくし、髪は潮風でバリバリ、肌は焼けてカサカサになり、小学生のときに机の引き出しから出てきた数日前に食べ残した給食のコッペパン、私はあれにそっくりだった。
食堂の仕事を終えると、私は地下のカフェバーの皿洗いに向かう。大きな皿をしっかり洗い、表面をピカピカに拭き上げる。でないと、料理が美しく乗らない。皿洗いは皿の状態を整える大事な仕事だよと、シェフはいつも私にそう言って、皿を磨くための大きな布をバサバサと広げてから2回畳んで渡してくれた。

22時までのバイトを終えて駐輪場に向かうと、先輩が私の原付バイクにまたがって煙草を吸っていた。「お前も来るか?剣道部OBで遊んでるから。流し雛する海岸で」そういって自分のスーパーカブで膝を立てて、出番を新人ヒーローに奪われた初代のヒーローみたいに走り去って行った。

携帯もメールもない当時の私たちは、どうか親が出ませんようにって祈りながら家に電話したり、駅の伝言板を使ったり、駐輪場のバイクにメモを残したりしたものだ。だから先輩が私を待っていたのも、連絡事項だけ述べて消えるのも、友だち同士ならよくあることで、案外手間ひまをかけてささやかな約束をしたものだ。

夏が終わる頃、私は誘われた場所に行った。狭くてあまり人に知られていない海岸で、原付バイクが4、5台停められていて、見覚えのある先輩たちがウィンドサーフィンをしていた。ここでもペコリと頭を下げると、皆で手招きをしてくれて、その日から私はウィンドサーフィンを教えてもらったり、釣った魚を焼いたり、穴を掘っては埋まったり、拾ったボールでキャッチボールをしたりして1日を過ごした。ゴザをテントみたいにして日陰を作って、そこで雑誌をめくったり、英語の授業の課題を手伝ってもらったり、わざわざ海岸でしなくてもいいこともここで過ごすから、私はコッペパンを通り越して焦げたコロッケみたいになってしまった。
いつもの顔ぶれに、たまにゲストが参加することもあるけれど、海に入ったり、波に弄ばれたり、砂浜で焦げていたり、日陰で干されたり、打ち上げられた海藻のような毎日を私たちだけは飽きることなく過ごした。

クリスマスも私たちはそこにいて、それぞれが持ち寄ったチキンや魚の干物、おにぎり、ホイルに包んだじゃがバター、イカの味醂漬けを七輪で焼いた。サイダーやコーラで何度も乾杯をして、陽が落ちてお腹がいっぱいになる頃、私が町のおもちゃ屋で買ってきた少し湿気た花火で、聖夜の海に鮮やかな火花を散らした。火花が消えると眩しく輝いていた砂浜はしんとして、熱くなった身体を波打ち際で冷やして、私たちは刹那の寂しさを知った。一度習慣になったことから抜け出すきっかけを見出だすのは難しいけれど、この生活に終わりが来ることは、いつも心の真ん中にあった。

二十歳の私と四年制大学に通う先輩たちは一緒に就職活動に悩み、励み、はしゃぎ、卒業を迎えた。いつもはゴム草履で入店出来なかった海沿いのきらびやかなレストランにパンプスを履いて出掛け、赤ワインの祝杯で優雅にシルバーを使って牛フィレ肉を頂いて、「パンプス似合わないなあ」と笑われて、別れた。

それから20年が経ち、「元気か?皆で剣道再開した。見に来る?」と連絡をもらったので、私は2人の息子を連れて稽古を見に行った。いつかのようにペコリと頭を下げたら、皆で手招きをしてくれて、息子たちは素振りを教わり面打ちをさせてもらった。
そこで剣道に魅せられた次男のおかげで、私たち親子は剣道の稽古に通うことになるのだ。長男も次男はそれぞれの目標の初段と三段を頂いて、剣道を引退した。親子で11年も、稽古が出来た。

息子たちが剣道を引退しても稽古に通い続ける私に、「元気か?稽古会しようぜ」と先輩からメールが来た。地元や会社で稽古をする後輩たちが実行委員となって動き出したが、稽古会をする場所がなかなか見つからない。前回の初めてのOB会は様々なツテを使って母校の格技場を借りられたのだが、今回は閉校される学校の都合と合わず、地元の市民体育館も予約が取れず、一同のテンションが下がっていた。海で遊んでいたときから一番下の妹的立場でいた私は、兄貴たちが困っているなら、たまには私が全力で動かないとなあと思い、所属する道場の先生に相談をした。「若いときに一緒に稽古されていた方々が大人になって再び集まって剣を交える。嬉しくて羨ましい話だ。うちの剣友会の稽古を一日休んでだって、体育館を使って頂きたい」とおっしゃる支部長先生のありがたいお気持ちに甘えて、体育館をお借りすることにした。そしてせっかくなので、合同稽古を企画した。

「ようこそお越しいただいて」と先生方。「本日はありがとうございます」と先輩たち。
私が剣道部に入部したときに竹刀の持ち方から教えてくれて、高校を出たあとも気にかけてくれて、大人になってもその縁を繋いでくれた先輩たちと、息子たちと私に丁寧な指導をしてくださった剣友会の先生方が一足一刀の間合いで向き合っている。「真面目に稽古しなかった部員でしたが、今は楽しく続けているみたいで、お世話になっております、ありがとうございます」って先輩たちが実家の兄みたいな顔をして頭を下げるから、「子どもたちの面倒を見て、会務にも励んでくれて、唯一の大人の女性剣士ですので色々気配りしてくれてますよ」と嫁ぎ先の義理の父みたいに支部長先生が微笑む。
旧姓や下の名前や現姓で呼ばれて、あたふたする私を剣友会の子どもたちが珍しそうに見ていた。「大人になっても部活の人たちと稽古するってすごいね、何十年前からの友だちなの?」と聞かれて数えて、「ひゃー!30年以上前だあ!」とのけ反る。しかもいつだって一緒にいるときは裸足なんだから不思議な縁だ。「俺たちは大人になったら剣道しないな」なんて言ってる中学生男子、私もそう信じていたから君らの未来が楽しみだ。
酷暑の合同稽古の交剣知愛は時をも超えて、16歳の私と今の私が相面ですり抜けていく。体育館に流れる空気はゆらゆらと、夏休みの幻みたいに不思議な光景だった。

令和2年の夏は、計画していたOB稽古会が、ウイルス感染防止対策のために中止になった。先輩にはどうしたって敵わないとか、あの面はずるいとか、お前すぐ休憩したい顔するからさ、と稽古の後の反省会という名の飲み会も消えた。剣友会の稽古再開も未定だし、夏のイベントも何もない。防具をつけて稽古して恐ろしいくらいの汗をかいて、シャワーを浴びた後のキリリと冷えた一杯の生活がなくなり、身を守るマスクをつけて穏やかを装う時間が長くなり、日々の気持ちの行き場がわからない。あるのは不安で不機嫌なニュースばかりで、逃げるようにベッドで丸まっていたらメールの着信音が鳴った。実家の長兄的な先輩からの、やっぱり短いメールだった。「今こそ元気にしてろよ」