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一人の幸せ

「なんかもういいわ」
 拓也のその言葉を聞くのももう何回目だろうか。彼のその言葉を聞くと私は深いため息をつき彼の食事を片付ける。食事が終わるとお風呂にも入らずすぐに布団に入ってしまう拓也を横目に私は彼の残した食事を自らの手で捨て、食器を洗い始めた。



 拓也は私のタイプでは無かった。肌が白く、痩せ型の亭主関白だ。マッチョで色が黒くて優しい人が好きな私がなぜ拓也と付き合い始めたかと言うと、よくありがちな「彼氏と別れたばかりで寂しかったから」という理由が頭に思い浮かぶ。二十代も折り返しに差し掛かり、田舎の友人には子どもが二人いることも決して珍しくは無かった。たまに地元に帰るとこの歳で彼氏すらいないことを必ずバカにされる。二十代半ばで彼氏がいないということは田舎民にとっては生涯独身とほとんど一緒なのだそうだ。

 東京に住んでいる私は特に焦っていたわけでは無いが、コロナ禍で出会いも無く仕事すら家でやるようになりとにかく寂しかった。おうちデートなんてSNSに乗せている友人を見ようものなら、嫉妬でミュートにしてしまうほどには寂しいと思っていたと思う。そんな中付き合っていた彼氏に浮気され、泣いていた私に近付いてきたのが拓也だ。

「俺ならそんな顔させないのに」

 友人と参加した飲み会で寂しがっている私の隣にたまたま座ったさわやかな青年が拓也だった。心にすっと入り込んでくるのが上手な拓也は、笑うと細くなる目をさらに細くして私を口説いてきた。自信満々なこの彼に、少し身を委ねても良いのかも、なんてぼんやり考えていた時、彼に告白された。デートも二、三回した程度でお互いのことはよく知らなかったけれど、このチャンスを逃したらもう出会いは無いかもしれないなんて思い、付き合うことにした。

 実際、拓也は仕事も安定していて収入も悪くない。友人も多く、周りからの評判も素晴らしかった。おまけにタイプではないがやせ形で清潔感のある拓也はどこに行っても好印象を残してくる。

「何それ、すぐ結婚した方が良いよ!優良物件!」

 と私の友人にも言われ、その気になり拓也と結婚する未来を少しずつ考え始めなければいけないのか、なんて思ったが拓也との結婚生活なんて想像も出来なかった。しばらくして、私よりはるかに結婚願望の強い拓也の方から同棲の提案があった。


「駅から徒歩三分の物件で、タワマンの二十階以上。出来れば都心がいいかな。あと2LDKくらいが調度いいかも。美沙もそう思うよね?」
「あ、いや…そんな上の方じゃなくても…」

 心配そうに資料を見つめる私を視界にも入れず、彼との部屋は四十階の部屋にいつの間にか決まっていた。



「お前毎日家にいるんだから毎日飯作れよ」

 同棲してからは口癖のようにこの言葉を私に向けてくる。PCの画面を無理やり閉じられ、拓也と目が合った。拓也はとにかく真剣な目をしていて料理を作らない私を責め立てた。

「ごめん、仕事が立て込んでて…今作るね」
「まだ?俺腹減ったんだけど」

 さらに私を責め立てるその視線が、声が、私の鼓膜を揺らす度に私の脳内はいつでも噴火してしまいそうになる。有り合わせのもので作ったおかずを、「なんかもういいわ」と言って残す彼も、洗い物もせずに寝転がる彼も、いただきますもごちそう様も言わない彼も、私の頭の中で何度も再生され、目が回りそうだ。もうすっかり酔ってしまった私は拓也が寝静まった後、洗濯をする手を止めてこっそり吐いた。

 カーテンの隙間から差し込む光で目が覚めると、まだ眠っていたいと思う間もなく大きな白い海から飛び出した。拓也より早く起きなくては、と思い隣に眠っているはずの拓也を見ると、そこに拓也の姿は無い。

 急いでリビングへ向かうと、椅子に腰かけた拓也が温かいコーヒーに口をつけたところだった。

「おはよう」
「おはよ…ごめん」

「まあ、そんな時もあるだろ」

 怒られると思っていた私は、拍子抜けする。拓也にもそんな時があるのか、なんて思っていると拓也がテーブルの方へ手招きした。拓也の隣に座ると何だか気持ち悪いぐらいの笑顔を浮かべていて、四角い箱を私に見せる。

「結婚しよ」
「え…?」

「美沙はさ、いつも俺のために家事頑張ってくれてるし良い奥さんになると思うんだ。俺と一緒になれば、仕事だってしなくて良いよ、子育てにも専念出来るし。俺たちの子ども絶対可愛いと思うから!結婚しよ」

 私はその時の彼の幸せそうな顔が忘れられなかった。本当は家事なんてしたくなかった私、子どもなんて欲しくなかった私、タワマンになんて住みたくなかった私、仕事が大好きな私。拓也は私から好きなことを奪って嫌いなことばかりさせたがる。なんでこの人は一人だけ幸せそうなんだろう。それに比べて私は…

でもそれを選んだのは紛れも無く自分だった。

「ごめん、受け取れない」

 初めて彼に自分の意見をぶつけたと思う。これで、彼がもし「どうして?」と言ってきたら私はきちんと説明しよう。説明して分かり合えるのならもう一度―――――――

「は?ふざけんなよ」

 彼を見ると、今まで見たことも無いほどの顔で私を睨みつけていた。ああ、この人はこういう時も私の「嫌」より自分の欲を優先するんだな、と私に指輪を投げつける彼を見てやっと感じることが出来た。




 狭い1LDK。相変わらず独り身の私はこんな狭い家でスーパーの特売で手に入れた食材たちを少しずつ腐らせない程度に減らしていく生活しか出来なかった。一人分の食事を用意し、食卓に着く。

「いただきます」

 と挨拶をし食べ始めようとするとスマホの通知が光るのが視界に入り、いつもなら無視をするが今日はなぜか無性に見たくなってしまった。

 SNSを開くと一番上に出てきた拓也の笑顔。その隣には綺麗な女性が笑っている。他人が結婚することにはもうすっかり慣れてしまった私は他の投稿と同じようにイイネを押した。


「ごちそう様」

空っぽになった食器を見つめ、私はいつまでも幸せな気持ちに浸っていた。


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