【短編小説】えんがちょ
右手の人差し指と中指を交差させる。カラスの羽に向かって「えんがちょ!」と大きな声で叫べば、カラスの羽と美奈の縁は切れる。黒くて汚くて、不吉な意味を持つカラスの羽を見たら、すぐにえんがちょをしなければならない。おじいちゃんから教わったように、毎回欠かさずにこのおまじないを行う。
映画に出てきた手足の長いキャラクターは、違う方法でえんがちょをしていたけれど、おじいちゃん曰く美奈が教わった方法のほうが縁を切る力が強いらしい。一度切った縁は二度と元には戻らないから安心だよ、とおじいちゃんは言っていた。おじいちゃんはとっても物知りだ。
学校から家までの道のりは危険でいっぱいだ。カラスの羽はもちろん、犬のふん、汚いハト、ゴミ収集車の変なにおい。片っ端からえんがちょをしていく。最初は慣れなかったえんがちょのポーズも、今では一瞬で作ることができる。
学校の休み時間中には、やんちゃな男子がバイ菌を感染させるために追いかけてくる。美奈はすかさずえんがちょをしてバリアを張るから、バイ菌を阻止することができる。でも友達のあかりちゃんはえんがちょがまだ上手にできから、いつも男子からバイ菌を貰ってしまう。だから今度美奈がえんがちょを教えてあげようと思う。美奈は友達がバイ菌だらけだとしても見捨てない優しい女の子だ。
家に帰ると、ママが怖い顔をして玄関に立っていた。ママの怖い顔は、とっても怖いから好きじゃない。
「美奈、さっき先生から電話がきてね、美奈ちゃんが宿題全然やってこないって言ってたよ」
ママの顔がどんどんしわくちゃになっていく。鋭い視線が美奈の心臓をキュッとさせる。
「ママ、怖い顔しちゃ嫌だよ。笑ってよ」
「うるさい! 美奈が悪い子だからママは怒ってるの! 宿題はしなくちゃダメでしょ?」
「だって……だってね……」この前の宿題のプリントは、うっかり机の引き出しに忘れてきてしまったのだ。その前は確かノートに挟んでいたプリントに気が付かなかったからだし、もっと前は授業中にちょっとだけボーっとしてて、宿題があること自体を知らなかったのだ。
「だってじゃありません! 悪い子にはおやつもなし!」
「な、なんで! 嫌だよ、ママ!」
目の奥のほうがぶわっと熱くなる。ママの視線が冷たく感じて、ママの体に抱き着く。待ってよ、とママに言っても、ママは無視して歩き始めるから、ズルズルと足を引きずって靴下にほこりがくっついてしまう。
どうして聞いてくれないの? 美奈は悪くないのに、美奈はママが大好きなのに。言葉にしようとしても、自然に出てきてしまう泣き声としゃっくりのせいで、うまく口が回らない。
「美奈離れなさい! どんなに泣いたっておやつはあげませんからね!」
両腕をつかまれて、身動きが取れなくなる。目の前にあるママの顔は、顔の真ん中にぎゅっとパーツが集まっていて、いつもの柔らかい表情はどこにもない。こんなママ、美奈は好きじゃない。
「ママ離してよ、痛いよ!」ママにつかまれた腕はジンジンと痛む。ママの手は大きくて、ゴツゴツとした岩のような形をしている。
「じゃあちゃんとママに謝って」
なんで美奈が謝らなければならないんだ。美奈は何にも悪いことをしていないのに。謝るって、自分が悪いことをしたときにするものだ。ママの掌から伝わる温かい体温が、今はなんだか気持ち悪くて、足をバタバタとさせるがびくともしない。
「もう! ママなんて嫌い! えんがちょ!」
右手の人差し指と中指を交差させて、ガラガラの声で思いっきり叫んだ。
プツン、と耳元で何かが鳴ったような気がした。瞬間、体が重くなって、そのまましりもちをついた。
あれ、とあたりを見回してみる。誰もいない。さっきまで、誰かがいたような気がするけれど、思い出せない。立ち上がって、家中を探し回った。リビングにも、寝室にも、トイレにも、玄関にも、クローゼットの中にも、誰もいない。家の中は不気味なほど静かだ。
気のせいかな、と最後にキッチンに行って、冷蔵庫を開けると、中には美奈が大好きなプリンが入っていた。
美奈は思わず嬉しくなって、とりあえずプリンを食べたら思い出すかも、と冷蔵庫の中に手を伸ばした。
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