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文化論から人格形成論

 人文学考ではありませんが、以下のようなTwitterをしましたので、シェアします。人文学の重要視点は入っています。

 文化論について。日本と西洋であれ、関西と関東であれ、…。文化というのは人を育む器。そして、その器は様々な人々の生き方の歴史的な堆積。その堆積には人を育む養分がたっぷり。そして!文化は生活圏(自然境界も人為的な境界もある)の間で異なる。

 文化間の異なりは、物事の仕方や話し方や言葉の違いとして表面の現象として現れる。そして、しばしば、文化圏で育った人々の性質の違いとしても論じられる。前者は、現象として確かに違いとして捉えることができる。しかし、後者は前者の違いと区別しなければならない。

 文化圏で人々→人の性質が独自のものになるはずがない。大阪で生まれ育った人はみんなおもしろくてざっくばらんということはないし、東京の人はみんな堅苦しくてなかなか胸襟を開かないということはない。どんな文化圏で育っても、文化はさまざまな個性を生みだすポテンシャルをもっている。

 冒頭で言ったように、文化は「人を育む養分がたっぷり」だからです。現代の社会について言うと、どの文化もそれ自体すでにハイブリッドになっているので、どんな個性も育むことができる! そして、言うまでもありませんが、時間の経緯で(歴史的に)、さまざまな要因で、人も文化も変容していく。

 わたしたち一人ひとりはそんな「歴史の奔流」の中で、<わたし>として安心できる「わたし」、「他者」と一定程度つながって交わって生きることができる「わたし」を見つけて、作って生きるほかない。できれば、「わたし」もハッピーに、「他者」もハッピーに。

 ただ、「『わたし』を見つけて、作って(生きる)」の部分は、要注意。これは、文化に包まれて生きる個人の主体性を過大評価している。子ども時代の人間は、圧倒的に「文化の圧」の下に文化によって「育まれ」る。思春期は、そこまでで「育まれ」た人格に気づくとき。

 しかし、気づきつつもまだ「育まれる」が続く。時間の大部分を「学校」というところに「閉じ込められて」生きるので。「学校」というところは、同年代の人と教師という人に囲まれた「囲われた時空間」です。

 そしてその間は、世の中をまだ十分に知らないが巨大な拡がりがあることは知っているので、自身の人格についての自覚が十分にできない。 つまり、「逆に言うと」!?、成人以降は、世の中と自身を(多かれ少なかれ!)照らし合わせながら自身のあり方を(多かれ少なかれ自覚的に!)考えられるようになり、考えるようになる。

 これが、先の「『自分』を見つけて、作って(生きる)」です。 そして、一定程度人格(円満な他者との関係も含めて)を形成して、さらに、自身の生き方(倫理、道徳、vocationすべて)のテロス(Wikiなどご参照を!)を定めることができた人は、自分らしい人生を納得・満足して送ることができる!?

 ただし、テロスを定める(←これ自体も、自分が能動的にしているのか、自ずとそうなったのか、わからない)のはむずかしい。 そもそも人生を考えなければならなくなったことが、人間における「自然からの乖離」!、人間の原罪!、アダムのりんご!

 あれっ? 文化論の話をしていたのに、なぜか人生論になってしまった! これって、オチで、これは、自ずとそうなってしまった。これは、大阪の文化的な養分がぼくに育んでくれた素性!?

 ちょっと振り返ると、「学校」のところで方位変更してしまってますね。「学校」というのは、近代(という時代)の落とし子!

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