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日本語の習得と習得支援(≒教育)をめぐる野生の知性

 野生の知性について書いてみます。「日本語の習得と習得支援(≒教育)をめぐる野生の知性」としました。「日本語の習得と習得支援(≒教育)」には、授業を実践することだけでなく、授業のためのPPTや学生に与えて作業をさせるワークシートなどを作成すること、エッセイ(作文)を添削するときのうまい添削法なども含みます。また、そうした授業教師の技量だけでなく、コーディネータとして優れたスケジュールを策定すること、授業担当教師と適切に連絡したり指示したり相談したりすることなども含みますし、さらには教材の選定、教材や主教育・学習リソースの制作や、そもそもの教育を企画することも含みます。

1.当面の定義
1-1 「知性」と「野生の」

 「知性」ということなので、当然「言葉にして詳らかに説明できる」ということが伴わなければなりません。そうでないと知性とは言えません。
 一方、「野生の」ということなので、「野(フィールド)において実際の『それ』に従事してその中で培われた」ものでなければなりません。そして、この場合の野(フィールド)は、授業に限られず、コース、学校の教育全体、さらには日本語教育業界なども含まれます。

1-2 知性の磨き上げ、「勘」の培われ
 知性が磨かれるのは、端的に言うと、他者との対話を通して、です。さまざまなテーマをめぐって、他者の言葉・ディスコースに対峙して、そしてその言葉やディスコースの出所である人格とも対峙して、それに応答する自身の言葉を練り上げて、相手に返答する。さまざまな他者とこれを繰り返すことで、自身の関心領域のさまざまなテーマをめぐる知性が磨き上げられていきます。
 一方、野生の「勘」は、さまざまな要因が錯綜するさまざまな状況に直面して、それに絶えることなく、考えては、応答(言語的なリスポンス)したり反応(行為的・身体的なリスポンス)したりすることを通して培われます。そして、その「勘」は、ミクロの授業からマクロのコースや学校全体などを思考が行ったり来たりしながら培われます。

2.知性と野生の勘をめぐる留意事項
2-1 知性をめぐる留意事項
 知性が磨かれるのは、他者との対話を通して、と言いましたが、「他者との対話」には要注意!
 ワークショップばやりの今どきとしては、他者との対話と言うと、同じように現場で実践をしている同輩(peer)や先輩との対話が思い浮かぶでしょう。しかし、わたしの考えでは、同輩や先輩との対話では、それが真剣に行われたとしても、たいした知性の成長とディスコースの洗練は達成されません。
 極論としてぼく自身の場合を言うと、同輩や先輩そして後輩との対話は、検討すべきテーマを見つけたり、テーマについての興味深い視点を得たりすることには役に立ちますが、テーマを深めてそれを詳らかに言葉に編み上げて語ることにはそういう対話はあまり助けにはならないと感じています*。同輩、先輩、後輩との対話は、「再度考える」ための貴重な機会ではありますが、知性を磨き上げてくれる感じはあまりありません。ぼくの場合の知性を磨き上げてくれる対話相手は、心理学、人類学、社会学、言語哲学、哲学などの人文学の分野の卓越した先人です。言語や人間や人間的な現実(=文化)などをめぐるかれらの洞察そしてそれを語るディスコースは、自身の関心である言語の習得や習得支援(≒教育)をめぐるさまざまなテーマについて考え、詳らかに言葉にするときの巨大な助けになっています。
*ただし、相手が「テーマを深めて詳らかにそれを言葉に編み上げて語」ってくれる場合は別です。

2-2 野生の勘をめぐる注意事項
 野生の勘については、3点を述べたいと思います。
(1)「現場教師」の勘
 まずは、「現場教師」の勘についてです。授業の実践という現場で実際に実践を行うことを繰り返すことで、そもそもの現場の諸状況を見る目が養われ、それに対応する「うまい方法」やそれを実行する技量も培われるでしょう。学生が能動的に従事できる学習活動のアイデアなどもいろいろ思い浮かぶでしょう。そうしたもので、一定程度優れたものが、現場教師の勘となります。
 「現場教師」の勘というのは、現場授業教師の勘であって、それは授業を実践することに限定されます。それは、ここで論じている「日本語の習得と習得支援をめぐる」のごく一部だということになります。また、ごく一部で、日本語の習得と習得支援全般に関わるものではないことから、ややもすると偏狭なものになります。
 また、「対話的な鍛錬」がなされていない場合は、独り善がりなものになるおそれがあります。
(2)「勘」と対話的な鍛錬
 「勘」と言ってしまうと、それはすでに「言葉では言い表せない、説明できない」という含意をもってしまいます。つまり、自分の中に閉塞してしまうわけです。別の言い方をすると、「勘」は「勘」のままでは、公共性、つまり他の人や多くの同じ関心をもつ人たちに開かれたものにならないということです。
 「勘」が開かれたものとなりより洗練されたものとなるためには、他者との対話が必要です。そして、対話を通して、その相手である他者の「勘」も開かれより洗練されるわけですから、対話あるいは対話的洗練を通して、個人的な「勘」が、公共的な「勘」になる、と言うことができます。
 もちろん、「勘」は詳らかに言葉にしにくい部分はあります。しかし、対話そして対話的な鍛錬に多くの人が参画することは、公共財を生み出すためにも重要です。磨かれ洗練され詳らかに言葉にされた「勘」は、残すことができ、特に書いて残すことができれば、共有することができ、さらなる対話を喚起することができます。
(3)マネージメント的な勘
 (1)の「現場教師」の勘に限定するのではなく、日本語の習得と習得支援全般をめぐるという視野で「勘」を考えると、どうしてもマネージメント的な勘というものにも言及しなければなりません。
 マネージメントというのは、端的に言うと、物事の運営のことです。そして、会社のマネージメントや教育のマネージメントのようなさまざまな要因が複雑に絡まっている中での運営の場合に重要なのは、「物事を短期、中期、長期的にうまく運営する」という視点です。つまり、そこには「成長」という視点が伴っています。
 日本語教育者の場合のマネージメント的な勘には、自分自身のマネージメントの部分と、組織のマネージメントの部分があります。
 自分自身のマネージメントというのは、日本語教育者としての自身の成長をうまく運営することです。そして、組織のマネージメントというのは、自身がコーディネータや主任として関わっているコースやより広く学校全体の運営のことです。それには、人材育成、日本語教育の場合では教員研修の運営、なども含まれます。
 マネージメントの技量は、日本語教育に特殊なものではなく、組織として組織の中で仕事をする場合に共通の技量です。そして、マネージメントの技量は、それとして「共通性」が大きいと思います。身近な例で言うと、会社務めの経験のある日本語学校の主任は、しばしばコースのマネージメントに優れています。

3.野生の知性の発達
 1-2で「考えては」と「思考」を太字にしました。野(フィールド)においてもわたしたちは必ず、状況を見極めて、適切な判断をするというふうに常に「考えて」います。そして、「考える」というのは何らかの「思考」であり、思考であるかぎりそれは、必ず記号として働いているはずです。その場合の記号には、言語だけでなく、図式や数式なども含まれます。しかし、その重要部分は言語です。
 そして、「思考」が言語として働いているのであれば、それは他者との対話の脈絡に入れることができます。対話は身近には、同僚、先輩そして後輩との対話となります。しかし、「遠く」との対話も可能です。それが、関心のテーマに直接あるいは「遠く」関わる、卓越した先人との対話です。
 優れた野生の勘は、優れた先人の洞察との対話によって鍛錬されてこそ、洞察と叡知のある野生の知性になることができるのだろうと思います
 




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