見出し画像

日本語教育学における哲学・思想

 標記のテーマ、ずっとずっと前から自分の中であまり定まらなかったのですが、突然書けそうな感じがしましたので、トライしてみます。
 一応、「日本語教育学における」としましたが、実践的な関心での学問に共通すると思います。
 2年ほど前に日本語教育学会で、日本語教育学の構造化ワーキンググループから報告書が出され、その中で日本語教育学の俯瞰図が提示されました。以下のサイトに、俯瞰図とその説明があるのでご覧ください。

 俯瞰図のC8として哲学・思想を位置づけているわけですが、この段階でもわたしは「日本語教育者や日本語教育学をする人は、人文系の実践者・研究者として哲学・思想の専門的教養がないといけないよねえ。ないとはずかしいよね」くらいの位置づけしかできないような感じでした。でも、今はもう少しマシな位置づけができるかと思います。

1.哲学・思想と科学
1-1 哲学・思想とは何か
 まずここから始めるのがよいと思います。科学との対比での哲学・思想の特徴は、以下です。

(1) 関心のテーマについて「そもそも」から考える。テーマの中の個々の用語についても「そもそも」を考究する。
(2) 関心のテーマを包括的に考えて、各種の要因の相互関係を総体的に考究する。要因の悉皆性(関連する要因をすべてもらさず扱うこと)、相互関係の包括性が重要。*要因の軽重、つまり周辺的要因か枢要な要因かの考究も含む。
(3) 科学的な探究を自在に、しかしクリティカルに活用する。
(4) こうした探究を言葉とロジックを駆使して展開する。そして、それに参加する各個人が各々しっかりと自分で考えて、そしてこれを言葉にして徐々に自身の哲学・思想を彫琢していく。
(5) こうした作業を通して、関心のテーマについてのクリティカルな見方を創出する。クリティカルな見方というのは、要は、平凡なものの見方からの離脱。一言一言の言葉を抜かりなくする発する。

1-2 科学とは何か
 振り返って、科学について言うと、以下。

(1)' 「そもそも」を考えることことなく、一定の(当面の?)構成概念(一定程度の方便的に?定義された概念。「厳密科学派」は実証検証のために操作可能な概念でなければならないと言う)で、調査や実験に進む。
(2)' 探究の仕方を特定の分野に収める、特定分野の中の特定の研究領域や研究テーマに絞り込む、一定の研究手法下に研究を進める、ということをする。その結果、個々の科学的研究は必然的にスタートの関心のテーマのごくごく一側面を扱うものとなり、その成果は、観察された現象に根拠をおくという優れた面がある一方で、断片的で(もともとの関心のテーマの小さい切片になる)、その狭い部分を穿つ研究となる。
(3)' 多くの場合、「タコ壺」に収まってしまって、「タコ壺」の中で特定分野の研究者相互で「重箱の隅を突くような」議論にはまる傾向がある。同様のテーマについての他の研究分野を顧みなくなる。他の研究分野の人と議論ができない。ましてや、哲学・思想までは顧みない。*昔の研究者、例えば20世紀初頭までの学者(scholar)は、哲学・思想をしっかりやっていた!
(4)' 言葉とロジックよりも、特異的な手法で観察され収集した現象、データに依拠することを良しとする。それを重要とする。自身の考えを形成するという方向ではなく、非人格的な知見を引き出して、「どうだ!」と提供しようとする。*「どうだ!」と言っているあなた自身は、その知見をどう評価しているのですかと尋ねたくなる!
(5)' 科学的研究は(2)'で述べたようになるので、一つの全体としてあるもともとの関心のテーマについて、実際には何も言えない。また、「そもそも」の議論がしばしばおろそかにされるので、科学的研究からの提案は浅薄なものにならざるを得ない。(3)'や(4)'のような「弱点」があるので、関心のテーマをめぐって他分野の研究者や哲学・思想家と議論できない。このような結果、関心のテーマについてクリティカルな見方を創出することはできない。

1-3 対話の場を拓く哲学・思想
 実践的な関心に基づくテーマは、さまざまな要因が複雑に関与している全体です。哲学・思想はその全体に科学的な知見も取り込んで、包括的でクリティカルに統合的に接近する道を与えてくれます。そして、「そもそも」に斬り込みます。こんなにおもしろい学問はありません。関心のテーマの核心、キモを鷲づかみにしてその首根っこを何がなんでも押さえてやろうとする野心的な学問的営みです。
*ただし、わたしの知る限りで言うと、会話分析や相互行為分析などローカルな事象の緻密な分析から普遍に迫ろうとする科学もあります。それはそれでおもしろい。また、人類学のように、科学なのか、哲学・思想に近い学問なのかよくわからない分野もあります。いずれも、ハードコアの科学ではない、つまりちょっと「ヤクザな科学」(←これ、ポジティブに言ってます!)である気がします。

2.自身のことば学の彫琢をめざして哲学・思想しよう!
2-1 言語教育のためのことば学

 日本語教育の世界に入って以来のわたし自身の関心・テーマは、新たな言語の習得と習得支援です。そして、そのテーマに迫るためにさまざまな研究分野をさんざん徘徊しましたが、ヴィゴツキーに出会ったのが25年ほど前で、バフチンに出会ったのは、20年ほど前です。そして、過去30年くらいはずっと哲学・思想への傾倒が続いています。この30年間に出会った哲学者、思想家は無数。しかし、何も哲学・思想そのものを探究しているわけではありません。すべては、言語教育のためのことば学をつくり上げるためです。そして、今、やはりバフチンを中心として、その他の哲学・思想も織り寄せながら、言語教育のためのことば学が見えてきた気がしています。

2-2 「あんたは、どう思うの?」、「自分の頭で考えなはれ!」
 実践に関心を向ける学問においては、分化された科学は哲学・思想がないとその成果を生かすことができないのではないかと思います。日本語教育の実践を考える人は、冒頭で紹介した日本語教育学の俯瞰図のBのゾーンの調査や研究の成果を知ることや、Cのゾーンの各種の研究の成果を知ることも、専門職として重要です。しかし、それらを日本語の習得を習得支援という包括的なテーマの下に適切に価値づける哲学・思想がなければ、各分野の成果や知見はそれを生かす道を見出すことができないだろうと思うのです。

 昔、第1回の東京オリンピックの頃(←いつやねん!!)、「タンパク質が足りないよ〜」というコマーシャルがありました。日本語教育学、あるいは広く言語教育学は「哲学・思想が足りないよ〜」だと思います。哲学・思想は、徹底して自分で考えることを要求するという点で、知識を身につけることに慣らされている人には、とっつきにくいでしょう。また、うまく選んで勉強を進めていかないと、哲学者や思想家が操る難解な言葉(←ほんと、厄介です!)に翻弄されて取りつく島もなくなってしまいます。でも、ある程度哲学・思想がわかって、また哲学・思想との付き合い方がわかってくるとどんどんおもしろくなってきます。哲学・思想と付き合うマナーは、やはり、「あんたは、どう思うの?」、「自分の頭で考えなはれ!」です。
*哲学・思想は、それ自体一つの学問分野として固有のテーマがあるとも言えるし、さまざまなテーマについて哲学・思想的に扱うことができるとも言えます。
*しかし、若いうちは、研究者(大学の先生?)になるために、「科学的な手法」で研究をして研究成果を上げなければならないという社会的圧力があることは認めざるを得ません。本来であれば、大学の3・4年生か、せめて大学院の1年生のときに、日本語教育のためのことば学に触れておくと、若い人の研究者としての姿もだいぶ変わるだろうと思いますが、今はそれがありません。どうしても、科学的な研究方法、研究手法のお勉強が優先されてしまいます。この状況は、そもそも日本語教育のためのことば学が、日本語教育学の中に普及していないからです。「ニワトリが先か? たまごが先か?」。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?