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AIについて考えることは人生について考えること

要約

今回の記事では、AIに関する昨今の議論をもとに思うことを書いています。AIに言葉やロジックを任せてしまうことで、自らの幸せを感じる力を失ってしまうかもしれないということを議論しています。人間にはAIに代替できない幸せを感じる力が必要であり、言語や算数を学ぶことは、それを身につけるために不可欠だと考えられています。AIに知識やデータで勝ることはできなくなってきた現代において、AIと人間の関わりを考えることは人生の大切なものを考えるきっかけになるかもしれないと締めくくっています。

言語とAIと人間

AIについて考えることは、人生を考えることにつながると僕は感じている。

それは言語を中心として発達を遂げた人類に対して、ツールとしてのAI(言語をベースに開発された知能)が知能を肩代わりするようになった場合に”人間に何が残るか?何ができるのか?”を考えることに繋がるからだ。

人間は言語を生み出して知識を蓄積し、自分達の知恵として文明を築いてきた。
例えば「頭がいい」と言われる人は大抵、知識人を指すことが多い。「賢い人」と言うのも、経験や知識からショートカットされた思考を持つ人を指すことが多いだろう。

そうであれば、その言語および知識という武器がAIに敵わなくなった場合(最近はもう敵わない)、人間に残るものは何か?
極端な話、知識が必要ないとすると勉強する必要も無くなっていくと考えられる。”頭がいい人”は特別ではなくなったのである。

では今後人間は何をしたらいいのだろうか?

ここで、勉強を一切せず言葉も算数もできなくなった状態を想像してみる。

それは何をするにもAIに尋ねている状態。むしろ、何を聞いたらいいかわからない。それは言わばAIに操られた状態。それで幸せを感じることができるだろうか?
食う寝るなどの快は感じるかもしれないが、生物として必要最小限の満足であろう。

AIについて考える前まで僕は、幸せには”生物として自然な本能に従った満足が必要”な気がしていた。

実は幸せを”感じる”には十分かもしれないが、幸せを認識して理解するのはもっと高度な現象なのではないだろうか。すなわち、幸せを理解するにも実はロジックや理解力が必要なのではないか?と思う。

つまり世で言う勉強や経験などを積み重ねて、それぞれにとっての世界の見え方、いわゆる解像度を高める営みの先にこそ、幸せの認識があるのではないだろうか。認識せずに見落としている幸せがかなり多くあるのではないだろうか。

言い換えると、それが当たり前だと思っていないからこそ感じられる幸せがある。苦労したからこそ見つけられる幸せがある、とも言える。

操られたものではない”自分だけの体験と知識”、それはAIには用意ができない、人間に残された宿題であり権利なのである。

…とここまで断定形で書いてきましたが、これは僕が自分の体験や価値観をもとに今のところ考えている答えのない話なのです。このことについて考えれば、人の数だけ答えがあると思います。そういった答えのない話ができるところも、まだまだAIには真似しづらい、人生の良さなのかもしれないですね。

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