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無自覚な学歴差別が起こる背景・自分を生きるには

こんにちは、ミネソタより、コーイチがお届けします。
学歴って、その人の頑張ったことの一つの指標みたいなものですよね。でも人を見るときにもっと大事なのは、その人の”バックグラウンド”だと思うんです。
いろいろな背景の中、どう困難に立ち向かってきたか、どう工夫してきたのか、ということに光を当てたいと僕は思っています。

今回は、以前からこのことについてお話ししたいなと思っていた内容で、Twitterでフォローしている方がとても腑に落ちる言葉でツイートされていたので、それを引用させていただきつつ書いていきたいと思います。
詳しくはそのツイートのツリーを読んでいただきたいのですが、それはまさに「学歴とその人のバックグラウンド」に関する内容でした。

学歴や地位を自分の努力で勝ち取った、という考え方はあまり好きではない。…という書き出しから始まるこのツイート。shinshinoharaさんの受験生時代の記憶と共に書き綴られています。
家族の病気によって下の兄弟の面倒を見たり家事をしなければならず、勉強に集中できなかった受験生時代。そして家族が病気から回復したことで勉強を再開でき、浪人の末に京都大学に合格したものの、家族からすれ違いによりかけられた言葉のショック。そして大学に合格したことよりも、家を懸命に支えていたことを見てくれていた隣人のおばあさんがかけてくれた暖かい言葉。

大学に合格する、という過程は言葉にするとたった一言ですが、その一人一人がたどる道、そして本人の気持ちというのは、千差万別だということを改めて気付かされる内容です。

一方で僕自身は、本当に幸運にも大学と大学院を卒業して博士号を取得するに至って、今ではアメリカで雇ってもらえるところまで辿り着きましたが、自分の努力なんて、本当にごく一部の可能性を上げてくれたくらいのものだと思っています。これは周りの環境のおかげなんです。でもちょっと前の自分からしたら、想像もつかない未来だったというか、きっと10数年前の自分は、今の僕を見てすごい!と言ってくれると思うので、それは自分の中で(文字通り)自慢したいことではあります。

他人の学歴だったり肩書きだったりというものを見て、上に見たり下に見たりということは僕は無いですし、そもそも自分の学歴も地位も全く気にしていません。
上に見たり下に見たりという行為は相対的なものです。つまり相手に依存したものの見方、尺度ということになります。

一方で、社会には学歴の差別というものが存在しています。それはなぜなのか?
そして他人に依存した尺度を捨てて”自分を生きる”ためのヒントについて考えてみたいと思います。

差別に無自覚な考えが生まれる背景

そもそもこのツイートの発端としては、東洋経済オンラインの記事がありました。
それは「成功者による差別の芽」と題されていて、点数や偏差値至上主義に対して一石を投じる内容が書かれています。

つまり”勉強ができる子”を目指すという競争の中で、「できる子できない子」という区別が生まれ、それがさらには「努力した人してない人」、そしてついには「勝者と敗者」といったような差別を生んでいる可能性があるわけです。

そして記事では、それを当たり前と思っている世代が社会に出ると、偏見や無配慮を生み出してしまう、ということが危惧されていました。
つまり例えば、「自分は頑張って東大に入った。低学歴の人は努力しなかったその本人が悪いのだ。」という自己責任論を振りかざしがちだ、ということでしょう。これが成功者による差別の例です。

なるほど確かに、なんだかわかる話です。東大に入ったのもすごいし、きっとその人は勉強を長年頑張ったんでしょう。俺は怠けなかったぞ!みんなより俺は上だぞ、と言う自負もあるんでしょう。
偏差値主義、能力主義というのは、確かにその人を測る指標の一つを見ているわけですから、ある意味では一理あるでしょう。ただし、適切な競争というものはあって良いと思いますが、競争が行き過ぎると、あるいはそれが目的になってしまうと、何かがおかしくなる気がします。

ツイートの例でいくと、家庭の環境によって大変なことがあり、勉強どころではなかった。それは加味されるべきでしょうし、その人の取り組んだことは勉強というベクトルではなく、家を頑張って支えたということであり、それが讃えられるべきことのはずです。でもその背景を、知ってか知らずか関係なく無視されてしまうことがあります。


マイクロアグレッションという言葉があります。
これは、日常的な、何気ないやりとりの一瞬の中で受けとってしまう中傷のことです。

例えば「人種/性別なんか関係ないよね」という言葉。何も問題なさそうにも見えますが、文脈によります。
実際にはそこにある”差異”に目を向けず、全ての人に成功する機会が平等に与えられていて、成功も失敗も能力や努力などの個人の結果とみなす言葉の裏返しなわけです。これは能力主義信仰と言えます。

SNSなどで以前話題になった一枚の漫画の絵が思い出されます。野球観戦している三人組ですが、背の高さが違うので、フェンス越しに試合が見える人と背伸びしてもギリギリ見えない人がいます。
もし平等という言葉の意味を間違えると、同じフェンスの高さというルールの下だから、見えるひとと見えない人が出てきて当然。これが平等だ、と感じるでしょう。
でもここでの本当の平等は、背の高さに応じた台を用意することです。それに乗ってフェンスから顔を出すことで、三人とも目線を揃えて試合を観戦することができる。これが平等に観戦の機会が与えられた状態です(確かその絵では「公平」と呼んでいました。平等と公平の違いはまたいつか…)。

この例は極端なので明らかにどちらが正しそうか、というのは多くの人の意見が一致しそうですが、実際にはもっと複雑で個人によって思いが変わってくる話だから難しいところだし、気付かれにくいところなのです。

これが平等でしょ!と思っていても実は違っていたり、自分には何の問題でもないと思っていたことが誰かにとっては大問題だったり。
きっと誰しもが何らかのマイクロアグレッションを受けたことがあり、また、誰かに投げてしまっていることでしょう。

その人のバックグラウンド

ではなぜこの能力主義とも呼べるような無自覚な差別が生まれるのでしょうか?
それは、「頑張ったら報われる」と思っているからです。
多くの人が、頑張ったら報われてほしいと思っていると思います。でも実際にはそれは、周りの環境や人が背中を押して、引っ張り上げてくれて、協力してくれたからこそ培われた概念なのです。

頑張っても報われないこともあるし、頑張ることができない場合もある。
そんなバックグラウンドは誰にでもありうる。そしてそういうものはあくまで背景だから、他の人からはなかなか見えない。その見えない部分を抜きにして、その人を評価したり見下したりすることなんて、意味がない上にナンセンスなわけです。
その上、これは相手を尺度にした相対的なものの見方です。相手からして自分はこの位置、と考えることでしか無いのです。相手に対して自分の方が優れていると思いたい心理、それは人間誰しも持つものですが、ここではそれ以下でもそれ以上でもないのです。

それでも最後はやっぱり”個人の努力”だ、と思わせてくるほどに「頑張ったら報われる」という既成概念は強力に思考を縛ってくるわけです。

その人のバックグラウンドをどれだけ知っているか」これはとても大切なことですし、気をつけなくてはならないことです。そして本人以外、全てを知ることなどもちろんできませんから、つまり目の前の出来事だけで断定したような他人への差別は、誰もしてはならないわけです。

これは相手に同情しましょう、とか事情を加味して甘く評価しましょう、ということではありません。
その人がどんな困難に立ち向かったのか、どんな工夫をしたのか、どんな選択をしたのか、というところに光を照らして考えるべきなのだ、というのが僕の考えです。

過去の自分と伴走する

shinshinoharaさんのツイートでは、家庭の事情で大学に行けなかった場合に思いを巡らせて、以下のように締めくくられています。ここが一番心に残りました。(文章を一部省略させていただいています。ぜひ本文は元ツイートでご覧ください。)

私は今も、大学に行けなかった自分と伴走している。君は元気にやっているだろうか。君は逃げなかった。誇りに思うべきだ、誰にも恥じない生き方をしている、と言ってやりたい。私は、もしかしたらそうだったかもしれない自分に恥じない生き方をしようとしてきた。

世の中には、家庭などいろんな事情で進学を諦めざるを得なかった人がたくさんいる。私ももしかしたらその一人だったかもしれない、その人たちは、苦境の中でも頑張ってきた人たち。何を恥じることがあるだろう。むしろ胸を張り、誇りを持つべきだと思う。

私はそう云う人たちに敬意を抱く。学歴だとか地位だとかではなく、その人が苦難から逃げずに立ち向かったどうかを見たい。

ShinshinoharaさんのTwitterより(一部省略)

もしかしたら大学に合格できていなかったかもしれない。そういった幾つもの人生の分岐点を乗り越えてきたわけです。
現在の自分というものは、過去の努力ももちろんあるし、”運”や周りの人の協力、環境など、さまざまな因子の上に成り立った奇跡のもとに成り立っているものです。

そして、さまざまな困難や人生の分岐点というものが、どんな人にも必ずあると僕は思っています。それは見え方や感じ方も違うし、本人しかわからないこともたくさんあるでしょう。

「もしあの時、違う道を進むことになっていたらどうなっていただろう」
そんな風に思いを巡らせる瞬間は誰しもあると思います。

僕は学生の時に一瞬だけ、博士課程に進んで研究を続けるか、就職したりして別の道に進むか迷いが生じたことがありました。それは経済的理由や将来に対する不安や、いろんな気持ちが渦巻いてのことでした。
その時かけていただいて言葉で、背中を押してもらった言葉が忘れられません。

そこに挑戦できるというだけで、他の人には真似できないチャンスをあなたは手にしているのよ

そうだ。「やってみたい」と思っても手が届かない人や、その機会すら与えられない人もいる。
今ここで、僕は幸運にも後押ししてくれる人がいて、そのチャンスが開かれている。挑戦できるチャンスがありながら、それをしなければ、それに手が届かなかったかもしれない自分に対しても失礼だ。そう思いました。

その時以来、僕はたびたびその分岐点を思い出します。もし研究を続けていなかったら、絶対研究したいって言い続けているだろうなと思うんです。そんなもう一人の自分のためにも、僕はこの道を頑張らなくてはならない。

これからもたくさん人生の分岐点が現れてくるでしょう。その度に増えていく「伴走する自分」と共に、自分が今一番ベストだと思える道をしっかり走っていこうと思うのです。

それこそが、他人を尺度にしたものの見方を捨てて”自分を生きる”ということにつながると考えています。



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