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9割の人が知らない⁉身だしなみの本質

ども、イシちゃんです。
先日、地元のニュースで面白い話題を目にしました。

実は、5年ほど前に僕は「これからは、ファッションも人生戦略の1つになる」と【預言】した記事を書いていました。

そして、それが今こうして教育の現場にも広がっているということは、僕らは改めて「ファッションの力」というものを基礎から見直す必要があると思います。


身だしなみって何だろう?

そもそも、「身だしなみ」とは何でしょうか?それを明確に誰にでも分かりやすく説明できる人はどのくらいいるでしょう?

広辞苑には、

①身のまわりについての心がけ。 頭髪や衣服を整え、ことばや態度をきちんとすること。
②教養として、武芸・芸能などを身につけること。

と記されています。「何のために」心がけるのかということは、デジタル大辞泉によれば、

人に不快感を与えないように言動服装を整えること。また、その心掛け。「身嗜みに気を配る」
身分境遇に応じて身につけておくべき教養技芸。「上に立つ者としての身嗜み」

と記されています。

つまり、簡単にまとめると

相手を不快にさせないために、体裁を整えること

が辞書的な意味であり、世間一般的にもこのような認識の下で「身だしなみ」というものが様々な場面で教えられています。

具体的には、学校教育、就職活動、会社の新人研修などが挙げられると思います。

冒頭の記事で紹介した宇美商業高校もそうですね。教頭先生も、「求められる身だしなみを場所や目的、 場面に応じて自らが考え、選択していく力をつけてもらいたいと思い取り組んでいく。」と語っています。

辞書にも書かれている「意味」ですので、間違いではありません。間違いではないんですけど、

意味=本質

と捉えているのであれば、僕は違うと思います。「間違い」というよりは、「ニュアンスが異なる」というイメージです。

というのも、何でもそうですが、物事の【本質】ってもっと【主体性】が強いものであるはずですし、いつの時代も【主体性】が大事である事が問われてきたからです。

そう考えると、辞書に記された意味には

相手を不快にさせない=依存的

な要素が含まれていることに気づきませんか?

相手が不快に思うかどうかは、相手次第

なわけです。どんなに、相手に配慮をして体裁を整えたつもりでも、相手が不快に思うことだってあるわけです。

つまり、相手に依存するということです。

だから、もっと【主体性】を強めた解釈が必要だと思います。

そのためには、

身だしなみとは【表現方法】の1つ

だということを改めて認識することが大切です。

つまり、自分以外の誰かに何かしらのメッセージを送る行為の1つだということです。

例えば、僕は美容師としては20年以上続けているいわゆる【ベテラン】と呼ばれる部類に入りますが、元々オシャレに敏感だったわけではありません。

むしろ、学生時代はいわゆる「真面目キャラ」だったので制服はちゃんと着るし、ヘアスタイルもスポーツ刈り、表面的には「身だしなみが整っている委員長キャラ」でした。実際、高校時代は生徒会役員もしていました。

ただ、どの世界でも「身だしなみが整っている委員長キャラ」って必ずしも万人受けするとは限りませんよね?

身だしなみが整って見えても一部からは不快に思われるタイプ

もいます。僕もどちらかというとそのタイプでした。

その一方で、

身だしなみが整って見えて、誰からも愛されるタイプ

もいます。僕の言う「身だしなみの本質」というのは、

身だしなみが整って見える2つのタイプの違いは何か

ということです。

つまり、

「身だしなみを整える」ということを通して
何を表現して
相手が何を感じ取るのか

ということです。

これが分かっているかどうかで、相手の反応は大きく変わります。

例えば、

相手の靴を見ろ

という言葉が欧米にはあるそうです。これは、治安が悪いと言われる欧米ならではの身を守る訓えの1つなのですが、

高級な靴を履けと言っているのではないし
流行の靴を履けと言っているのでもないし
新品の靴を履けと言っているのでもありません

キチンと大切に手入れされた靴を履いているか

と言う意味です。身につけているモノの扱い方からその人が

丁寧に接する人物か
雑に接する人物か

それを見抜くというわけです。靴って対面した時にこちらが見る意識がないとなかなか目につかないようなアイテムですよね?

そういう所にまで配慮して、『丁寧に大切に扱える人であれば人に対しても同じように丁寧に大切に接してくれるから安心できる可能性が高いけど、手入れをしない、モノを雑に扱うような人は人に対しても接し方が雑でヤバい人だから注意しなさいよ』ということを訓えているんですね。

もっと言えば、

大切にできる物だけを持ちなさい

ということでもあるんですけど、「モノを大切にする習慣」って言うまでもなく【主体性】が強くなければできない行為です。

この「相手の靴を見ろ」の中に、「身だしなみの本質」が隠されています。

それは、

自分を大切にし、相手の心を尊重する

ことが身だしなみの本質であり、表現手段だということです。

つまり、「身だしなみを整える」ということを通じて、

自分を大切にできることを表現し
相手のことを尊重する心のゆとりが感じられる

かどうかで、身だしなみが整って見える2つのタイプが分かれるというわけです。

自分を大切にするということが、相手のことを尊重するということにどうして繋がるのかというと、

人を尊重するまでには段階がある

からなんですね。具体的には、

①自分を大切にする
②心に余裕が生まれる
③できた心のゆとりを使って相手を尊重する

ということです。

「人を大切にしなさい」といったことは小さな頃から言われ続けているわけですけど、人を大切にするのも、自分を大切にするのも【心】を使うことです。

だけれども、一般的にはたった1つしか無いモノです。例外的に、解離性障害とかそういうケースもありますけど、そういうケースに遭遇することは極稀です。

たった1つのモノではあるんですけど、目に見えないモノです。目に見えないモノだからこそその取扱いは気を遣わないといけません。

たった1つしかないモノをどう扱うかで結果が違うということなんですね。

表面的には同じように「身だしなみが整って見える」のに、一部の人からは不快に思われる人と、誰からも愛される人に分かれるのは

心の余裕があるかどうか

で分かれるからなんです。

自分のことすら大切にできない人

は、言うまでもなく、誰からも近寄られません。何かしらに絶望し、諦め、自分からは何の努力もしないで、ただただ漫然と過ごすような人は、自分のことを大切にしようとする意思すらないわけですから、身だしなみにもそれが現われ、整わないんです。

そういう人と対面すると人は自覚していようと、無自覚だろうと、

あ、コイツヤバい

と感じてしまうんですね。

身だしなみが整って見えるのに"なぜか"不快に思われる委員長キャラ

は、【真面目】であることが多いです。

真面目に努力して、真面目である事にひたむきに努力しているわけです。これは決して悪いことではありません。表面的には何の問題も無いように見えるくらいです。

問題なのはその「動機」です。「恐れ」から真面目であろうとしているからです。

真面目である事を親や学校、社会から求められ、真面目でない者に対する評価を恐れるがゆえに、真面目であることに必死にしがみついているから、一部の不快に思う人はそれを無意識に感じ取ってしまうんですね。

それって、自分を大切にしようとしているのではなくて、自分の評価や肩書きを守ろうとしているだけで、自分に余裕が無いことの現れなんです。

自分のことしか見えていないし、見ていないということです。むしろ、自分のことしか見ていないようで、自分のことすらも見ていないかもしれません。

だから、失敗も許せないし、失敗を恐れて融通も利かないといったことも出てくるし、細かいところに気が利かなかったりするんです。
かつての僕もそういうタイプでしたし、僕の場合は幸運なことにそれに気づくことができました。

一方で、

身だしなみが整って見えて、誰からも愛されるタイプ

はどうかというと、表面的には同じように真面目に努力もして、何をするにも一生懸命でも、「動機」が違います。「好き」を大事にしているからです。

好きなことのために努力をするし、好きなことを好きであり続けたいから、適度にサボることだってします。

そもそも、努力を努力とすら思っていません。好きだからです。それによって評価が多少悪くても、それを素直に受け入れることだってできます。
素直に受け入れた上で、次はもっと力を尽そう、もっと好きになれるように、もっと好きでありつづけられるようにしようと思うんですね。

だから、心にも余裕ができて、失敗も認められるし、失敗を糧にできるし、じゃあどうしようかと柔軟に考えることもできるし、誰かを頼ることもできます。

誰かを頼ることで、頼った相手に感謝することができるし、相手のことも分かるし、相手が困っていれば今度は私も力になろうと思えるようになります。

人って不思議なもので、弱みを頑なに見せない完璧超人よりも、どこか抜けてたり、弱みを見せられる人に共感したりするんですよね。

「あ、この人もこういう一面があるんだ」とか、
「あ、この人も私と同じなんだね」とか

そういう共感ポイントがある人と繋がっていくんだと思います。

弱みを見せない完璧超人というのは頼りにはなるでしょうが、共感ポイントが無ければ楽しいも面白いも嬉しいも感じられないからです。
それって、なんだか味気ないというか、機械みたいじゃないですか。

じゃあ、

自分を大切にするってどうしたら良い?

となるわけですけど、そんな難しいことじゃないんです。

自分のことは人任せにしないでちゃんとする

ってことです。これができない人が意外と多い。

自分が着るYシャツやスラックスを自分でアイロンかけるとか
洗濯したモノをキチンとたたんで、片付けるとか
髪を洗ったらちゃんと乾かすとか
靴の手入れを自分でちゃんとするとか

そういう簡単なことを当たり前に自分でするってことなんですね。手入れの仕方が分からないのであれば、検索すれば今の時代いくらでもでてきます。

大事なのはやるかやらないかだけです。

にもかかわらず、多くの人は

家族に任せたり
やりっぱなしにしたり
溜め込んでまとめて外注したり

そういうことをするんですね。

分かっちゃいるけどやめられねぇ!

んです。

それはそれで良いと思います。というよりも、人が何か行動を起こす時、行動を改める時っていうのは強い動機となる【きっかけ】があるからです。

そして、多くの場合その【きっかけ】となるのは、失敗とか挫折を味わった時だと思います。人は何も問題を感じていない時に行動を変えようとは思わない生き物だからです。

僕が、僕自身のキャラの闇に気づき、こうしたことを理解し、発信できるようにまで至ったのも【きっかけ】があったからです。

僕はバツイチで、シングルファザーを経験し、再婚して今の生活があります。

なぜ、離婚に至ったのかというと、僕に限った話でもなく、多くの離婚家庭に言える事ですが、シンプルに

自分を大切にしなくて、心に余裕がなく、相手のことも大切にしなかった

からです。そして、それは前妻を含めてお互いがそうであったからそうなったんですね。

個別具体的な何かしらの問題を挙げれば、どんな離婚家庭にもあるものですが、それはいったい何なのかというと、この一言に集約されるということです。

よく、「私はこれだけ尽くしたのに」「俺はこんなに頑張ったのに」って言う人もいますが、それって「尽くす」「頑張る」という「夫として(妻として)の評価」にフォーカスして、「自分の好き」、「相手の好き」が見えていなかったがゆえの押し付けだったんですね。

この辺りのことは機会があれば書きますけど、「分かっちゃいるけどやめられねぇ」って人は、見方を変えればまだそれだけ余裕があるということなんです。そんなことを言える余裕があるってことなんですね。

だから、「分かっちゃいるけどやめられねぇ」ならそれはそれで良いんです。

大事なのは、

本質をキチンと理解しているかどうか

なんです。知っていれば、【きっかけ】が訪れた時にやれば良いだけです。でも、知らなければ【きっかけ】が訪れても何も変えられませんし、気づきもありません。

最悪なのは【きっかけ】が訪れたのに、知らないがゆえに、その責任を自分の中ではなく、自分の外に求めてしまい、いつまでも苦しみ続けることです。

『身だしなみを整える』ってことの本質にはそれほどの価値と意味があるということだけは知っていて欲しいと思います。

ここまで掘り下げて「身だしなみの本質」を語っている文献というのはネット社会といえども1割にも満たないと思うからです。

でも、これを理解した上で整える「身だしなみ」には言葉以上の力を与えられる事は断言できます。

大切にされた自分の姿はキレイで魅力的だからです。そして、それに終わりはありません。キレイに魅せる魅せ方はつき詰める程に奥が深いからです。
それが「着こなし」に通じるわけですが、身だしなみの本質を捉えることはその土台です。

自分の中に何があっても揺らがない確固たる土台がある人は強いです。そしてそうした人はもれなく姿に現れています。
単に強いのではなく、人を受け入れ、人を愛する器の大きさがあります。身だしなみを整えるというのは、その器を整えるということです。

少なくとも僕はあなたの身だしなみがそうあって欲しいと心から願ってこの記事を書いています。

なにより、この記事がきっかけとなるのは僕にとって非常に嬉しい話ですし、書いた甲斐もあります。

オシャレはその土台の上に成り立つものだからです。オシャレを戦略に加え、土台作りの参考にして頂ければ幸いです。

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