記事一覧
【批評】井上光晴の引用文をめぐって ~そのときはじめては誰の言葉か~
吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』(晶文社、全集版)を読んでいたら、141頁に井上光晴の文章が引用されていました。以下がその文です。
「黒い異様な臭気を放つ穴の近くで珍しく通りかかった男が、今日は二十日ですか、二十一日ですかと彼にきいたが、彼がこたえようとする間もなくふうふうといいながら返事もきかずに通りすぎていき、そのときはじめて仲代庫男の眼の中に涙があふれた。」(井上光晴『虚構のクレー
【短編小説】ガススター
一
自転車は、ガソリンスタンドの脇を通過するさい、吸いこまれるようにして窪みへと導かれた。荷紐がゆるみ、学生鞄のふり落とされるにぶい音を耳にした椎名ほたるは、左右のブレーキに手をかける。すり減ったゴムがホイールの回転をとめる、つんざくような悲鳴が殺風景な大地に降りそそぐも、ほたるはあまり意に介さない。片足をつけ、横目で後方を眺める彼女の顔は、不快というより不満足げだ。
ほたるは普段と変