学園紛争から遠く離れて―書評『赤頭巾ちゃん気をつけて』庄司薫
ある時代のムードを的確に象徴し、それによって爆発的なセールスを記録しながら、その時代の終わりとともに人びとから忘れ去られていくたぐいの作品というのがあります。
今回紹介をする庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』は、1969年の上半期の芥川賞を受賞し、単行本と文庫本とをあわせて160万部以上売れたとされる小説です。
政治学者の苅部直が書いている新潮文庫の解説によれば、「手元にある単行本は、文庫化のあとも八一年四月に増刷された第六十五版。一九六〇年代の純文学作品としては、とぎれることなく読み継がれている、数少ない小説の一つであろう」とのことですが、わたしの所有している新潮文庫は、平成24年に発行され、令和2年時点で4刷。
ほんとうにこの小説が「とぎれることなく読み継がれている」のかどうかは判断がむずかしいところですが、とはいうものの、現代の若い読者は、この作者名すら聞いたことないというひとが大勢を占めているのではないでしょうか?(歴代の芥川賞受賞作を読破しようとしている文学オタクでもないかぎり…。)
1960年代後半といえば、学園紛争がもっとも盛んだったころ。この小説が芥川賞を受賞した1969年の1月には、東大の安田講堂で東大全共闘と機動隊とがはげしく衝突、この年の東大入試が中止に追い込まれる事態にまで発展しました。
小説は、まさしくその時期を舞台背景とし、都内屈指の進学校である日比谷高校の三年生である主人公が、東大への進学を断たれ、大学という制度の外側で生きていこうと決めるある一日のできごとを追いかけています。
この小説の特徴といえば、「ぼく」という一人称を語り手とする、その独特な饒舌な文体でしょうか。当時芥川賞の選考委員だった三島由紀夫は好意的な評価をあたえるいっぽう、その「師」ともいえる川端康成は、否定的な評価をくだしています。
また、Wikipediaにもくわしく書かれているとおり、野崎孝訳のサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』の「盗作」疑惑もあがったいわくつきの作品でもあります。
ただ、『ライ麦畑』をとちゅうで挫折してしまったわたしの主観では、はるかにこちらの『赤頭巾』のほうがおもしろい。なんなら、「こんなにおもしろいのなら、別に多少の盗用をしていようがかまわないじゃないか、いや、もしかりにその全部が盗用だったとしても、それによってこの小説のおもしろさが減殺されることはない」というのが率直な感想です。
ところで、作品のタイトルがなぜ『赤頭巾ちゃん気をつけて』なのか、ずっと気になっていました。『ライ麦畑でつかまえて』に似せたオマージュなのかもしれませんが、ハタと思いいたったのは、「赤頭巾」に「赤」(共産主義)の意味を含ませていたのか?ということ。
共産主義的な思想に頭からすっぽりとカブれてしまうこと、そこに当時の庄司薫は皮肉の意味を込めたのでしょうか?
それにしても、60年代後半の学園紛争のふんいきってどんな感じだったんでしょうね。もしじぶんがそのときに学生だったら、ゲバ棒片手にヘルメットをかぶり、火炎瓶なんかを投げてしまうタイプになっていたんでしょうかねえ…。
じぶんの思想信条として、あまり政治的発言や行動をおおっぴらにとることは控えているのですけれど、それでも、その時代に生きてみないとわからない「熱量」のようなものがあるんでしょうか。
半世紀の時が流れて、すくなくとも表面的には、若者たちはだいぶ「クール」になったのかもしれません。それがよいことなのか、わるいことなのか…。
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