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「センスがいい」とはどういうことか?|【書評】松浦弥太郎「センス入門」

 「あのひとのファッションはセンスがいい」とか、「あのお店の内装はセンスがいい」とか、ことあるごとに「センス」という言葉を耳にします(しませんか?)。じっさい、うまくその対象を評価する言葉に困ったとき、わたしたちは、「センス」という言葉をもってくることで、なにかをいちおう「言い得た」気分になってしまうこともすくなくありません。

 でも、あらためて「センス」というのがなんなのか、具体的に考えてみようとすると、これがなかなかむずかしい。みなさんは、「センス」というのは、つまるところ、いったいなんだと思いますか?

 本書「センス入門」の著者である松浦弥太郎は、約10年間、雑誌「暮しの手帖」の編集長を務めたかたです。本書の初版は2013年ですが、この10年で20刷に到達しており、息の長いロングセラーになっているようすがうかがえます。

松浦弥太郎「センス入門」(筑摩書房)

 僕にとって「センス」とは、まず最初に、「選ぶ」もしくは「判断する」ということだと思います。センスが「何を選ぶか」「どう判断するか」という能力だとすると、それは、たくさんのなかから何かを選ぶことでしょうし、ときには自分にフィットする選択肢がないのでゼロから作ってみる道を選ぶということでもあるでしょう。

(p12)

 著者は本書の冒頭でこのように語っています。これは、わたしにもたいへん「腑に落ちる」話であって、たしかに、センスというのは「何を選ぶか」(あるいは「何を選ばないか」)という能力にかかわるものにまちがいはありません。

 ただ、本書がユニークなのは、著者のいう「センス」の意味合いが、融通無碍に変化をしていくことにあります。たとえば著者は、さきほどの引用部分のすこしあとでは、「「センスのよさ」とは、心を開いて、また会いたいなと思ってもらうような関係を人と持つことだ」とも述べています。

 ここでは、センスというのが「コミュニケーション」の領域にまでひろがっているわけですが、さらにさきを読んでいくと、著者は「センスのよさ」にかわる言葉として「美徳」をあげたりもしています。

 つまり、著者にとってセンスとは、ある種の「倫理的な規範や道徳」としてとらえられているのです。

 ここであらためて「センス」というものについて考えなおしてみるとき、たとえば、「あのひとの文章にはセンスがある」というとき、わたしたちはなにをもとにそのひとの「センス」を評価しているのでしょうか。

 もちろん、わたしたちはその文章が「おしゃれであること」を評価しているわけではありません(し、そもそも「おしゃれな文章」ってどんな文章だ?)。わたしたちがそこに「センスのよさ」を感じるとき、その文章はおそらく、読み手を意識した最大限の配慮がなされている、そう考えてよいとわたしは思います。

 読み手を意識した文章というのは、文章の係り受け(主述関係)にねじれがない、誤字脱字がない、適切に漢字・ひらがなが使い分けられている、論理展開に矛盾がない、といった形式的・技術的な面はもちろんですが、読者の立ち位置(どのような知的水準にあり、どのようなコンテンツを求めているのか)について、十分な配慮がゆきとどいていると感じます。

 他者に語りかけているようで、けっきょくは、知識のひけらかしにすぎなかったり、承認欲求のかたまりだったりする文章。そこにどれほど該博な知識が書かれていようと、どれほど深い考察が書かれていようと、読者の立ち位置を「誤認」している文章には、およそ「センス」というものがかけらほどもない。わたしはそう思います。

 こうなってくると、ある「倫理的な規範や道徳」を内面化して、じぶんの文章をみつめなおすことができているかどうか、その一点に、「センスのある文章」は賭けられている、そのようにも思えてくるわけです。

 結局、センスのよさとは、生きていくことのすべてなのです。
 おしゃれな格好をしていればセンスがいい、ではなくて、人づきあいとか、話し方とか、時間の使い方とか、お金の使い方とか、自分の生活も含めて全部にセンスのよさが必要です。何かひとつがよくてもだめなのです。だから、センスのよさとは、とどまるところを知らない、バランス感覚なのだと僕は思います。

(p140)

 「要するに、イソップのハンドソープを使っていればセンスがいいってことだよねー」。のんきにそう思っていた昨日までのあほんだらなじぶんの甘い考えに、喝をいれたいと思った一冊なのでした。


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