どこまでも乾いた風の気配―書評「TUGUMI」吉本ばなな
1989年。その年の文学シーンは、ほとんど、「吉本ばななの年」といってもよさそうなほど、このひとの作品が年間の売上ランキングを席巻しています。
あるサイトの記録するところによると、1989年の7位に「哀しい予感」、6位に「うたかた/サンクチュアリ」、5位に「白河夜船」、2位に「キッチン」、そして1位に「TUGUMI」がランクイン。
バブル経済の絶頂期のふんいきに、もしかすると、当時まだやっと20代のなかばにさしかかったばかりの吉本ばななの描く世界像が、なんらかの照応をしていたのかもしれません。
さかのぼれば、その2年前には、俵万智のあの爆発的なヒット作「サラダ記念日」が世にでており、村上春樹の「ノルウェイの森」も刊行されています。
けれども、その後しばらくは、この国の文学シーンに「これぞ」というインパクトのある一冊があらわれることはなく、平成という時代は、文学的な「枯渇感」をかかえたまま、のっぺりと流れていくことになります(1990年に生まれたわたしは、バブル崩壊後の「枯渇感」ないし「喪失感」というものを、いまだに背負わされている感覚をぬぐえません)。
さて、そうしてバブル経済華やかなりしころに書かれた吉本ばななの「TUGUMI」は、実に向日的で軽快な作品といえます。本の背表紙に書かれたあらすじを引用します。
すぐれた物語を読んでいるとき、わたしたちはきまって、「ああ、もっとこの物語に浸かっていたい、けれども、もっと先を読み進めたい」というアンビバレントな感情に苛まれることになるわけですが、わたしもこの小説を読むあいだ、ずっと、そうした「引き裂かれていることの苦しみ」に、心地よくおぼれていました。
もともと連載の小説だったこともあって、ストーリーはいくつかの章段に別れつつ、有機的につながって進んでいくわけですが、わたしが特に胸をうたれたのは、ほとんど本筋(主人公のつぐみをめぐるはかない青春の日々)とはまったく無関係な、ある一場面でした。
「人生」というタイトルのついたその章で、語り手である「私」(白河まりあ)は、東京のオフィス街でふいに父親の姿を見かけることになります。
すると、父の会社から1人のOLが走り出てきて、忘れものとおぼしき封筒を父に渡します。そうして封筒を受け取り信号をわたりはじめた父を「私」は追いかけようか悩みますが、結局とどまり、夕暮れの街でこう思うのです。
自分の親にも、そのときその瞬間にいたるまでの長い長い「生活」があったのだ。その気づきこそは、子どもというものが成熟したあかしであり、同時に、ひとりの主体として他者から永遠に切り離されてしまった孤独を引き受けはじめたあかしでもあります。
人生は「幻想」ではないが「演技」である、というのも、正鵠を射た発見のように感じられますが、こういう認識をまったくの「重たさ」を感じさせずに描けてしまうその筆致に、作家吉本ばななの、早熟でおそるべき才能の萌芽を感じずにはいられません。
海辺の町を舞台にしたこの小説には、主人公のつぐみを中心に、始終、さわやかな潮風が吹きわたっているような心地よさがありつつも、どことなく、妙にしーんとした静かな乾いた気配も感じられます。
それは、つぐみにつねに「死の影」が差しこんでいる、というそのためよりも、もっと、作者のもっているある「資質」のためのようにわたしには思われてなりません。
つまり、それこそが、「人生は演技だ」と達観してみせなければならなかった「私」の(作者の)、ただひとりでかかえている孤独のせいだ、と。
いうなれば、この海辺の町に吹きつける潮風は、どこまでも、乾ききっている。かなしいほど、透明に、乾ききっている。どれだけ強い風が吹こうとも、そこにはべったりとした潮気がいっさい感じられない。
だから、この物語を読み終えた読者の心には、ふしぎに覚めた、ドライな触感だけがあとに静かに残されるのです。
あとがきによれば、モデルになった海辺の町は西伊豆だそうです。そこでは、いま、どのような風が吹いているのでしょうか。
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