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【書評】そこには「見えない」仕事の力|牟田都子「文にあたる」

 石原さとみが主演のドラマ「校閲ガール」が数年まえに放送されてから、「校正」ないし「校閲」という仕事が世間に広く認知されるようになった印象があります。

 かくいうわたしも、新卒でいまの出版社に勤めるまえ、学生のころに四年ほど、予備校で高校の国語の教材の校正のアルバイトをしていた経験があります。

 といっても、この「校正・校閲」という世界に、個人として名のとおっているひとがどれだけいるのか。わたしは、寡聞にして、神楽坂にある校閲専門会社「鴎来堂」の社長、柳下恭平さんぐらいしか名前を挙げることができませんでした。

 本書、「文にあたる」の著者である牟田都子さんのお名前も、この本ではじめて知りました。立ち寄った書店に平積みされていたのがたまたま目にとまり、直感的に興味をひかれて買ってみた、というしだいでありました。

牟田都子「文にあたる」(亜紀書房)

 「校正」をテーマにしたエッセイ集。とまあ、ひとことで言えばそういうことになるのでしょうが、というからには、わたしのように本に関係する仕事をしているひとに読者が限定されてしまうようにも思われますが、ところがどっこい(よっこいしょういち)、なかなかどうして、これが広く「仕事」というものについて考えさせられる、すばらしい一冊だったのでした。

 わたしの乏しい経験に照らしても、校正・校閲というのは、ほんとうに「報われない」仕事だなあ、というのが率直な感想です。「校正」というのは、誤字や脱字、衍字を「正す」仕事をいいますが、「正す」というからには、「正解」がそこにある。

 たとえば、「孫にも衣裳」と書かれたゲラがあったとしたら、「孫」に「馬子」と赤入れをするのが「正解」であって、それをスルーしてしまえば、「誤植」として世間に赤っ恥をさらすことになります。
 
 そうして誤植を拾いに拾いつづけ(かりに百個も二百個も拾ったとして)、それでも、たった一個でもスルーしてしまったら、それは校正者の「失策」ということになってしまう。いくら拾ったところでだれに褒められるということもなく(臨時ボーナスが支給されるわけでもなく)、あまつさえ、実際にできあがった紙面では、校正者のかずかずの「ファインプレー」は影もかたちもみられない。

 もちろん、本づくりにたずさわっているひとであれば、校正(者)の重要性をじゅうぶんに認識し、その困難もわかっているのですが、ちまたには、本(や新聞)の誤植を発見しては、まるで「鬼の首でも取ったように」嬉々として指摘をしてくる読者もいる……。

 この本で著者は、「校正とは常に失敗している仕事だ」と語っていますが、これは、著者が「居直っている」わけでは決してないとわたしは思います。秋の公園に散り敷いた落ち葉のように、掃いても掃いても、それはそこに「ありつづける」のであって、完璧にそれらを取りのぞく、というのは現実的にむずかしいのです。いや、まじで。

 わたしじしん、いち編集者として(それも特に校正・校閲を入念にかけて、誤植を出してはいけない出版物にたずさわっている身として)、なかばわがままも承知でいうならば、もし読者が手にした本に「誤植」をみつけたとしたら、それをまっさきに非難するよりも、いちど立ち止まって、「無数の誤植が拾われた可能性」について思いをめぐらせてみてほしい。そして、それを「孜々として拾っている」ひとがいるということについても。

 「そこにある」ものについては、だれだってひと目みればわかります。チル(わたしの飼っている猫)だってわかります。でも、「そこに見えないものが見えるかどうか」は、ただ「観察」することを超えた「想像力」が必要になります(し、そういう「想像力」をつちかうためにこそ、わたしたちは本を読んでいるのではなかったでしょうか?)

 「そこに見えないもの」を想像できるということ。それがよき「読み手」の条件であり、あるいはまた、よき「生活者」の条件にちがいない。わたしはそう思います。

 本書におさめられているエッセイでは、校正というテーマを軸にしながら、本について、言葉について、仕事について、さまざまに著者の思索がつづられています。そしてそのどれもが、じつに、読みやすく、示唆に富んでいる。

 著者は、別に作家でもなければ思想家でもないわけですが、ひとつひとつの話が、よどみのない的確な文章で書かれ、経験に裏打ちされたたしかな実感と説得力をもっている。

 でも、そうやって「そつのないたしかな説得的な文章」をこの著者が書けるということに、わたしは、なんの違和感もおぼえませんでした。だって、そうじゃないですか? すぐれた校正者はすぐれた批評家にまちがいなく、とすれば、すぐれた文筆家にだって当然なりうるわけですから。

 さいごに、著者じしんの校正にたいする思いを引用したいと思います。

 叶うならすべての本に校正が入っていることがあたりまえになってほしい。本を作るときに校正を入れるべき本と入れなくてもよい本とを分けようとすることは、本の価値をあらかじめ決めようとする行為に思えてならない。(略)本はかならずしも意図したように読まれるとは限らない。誰かにとっては無数の本の中の一冊に過ぎないとしても、誰かにとってはかけがえのない一冊である。その価値を否定することは誰にもできない。著者自身でさえも。歳月を経て、刊行されたときに想定されていたのとは違う意味と価値を持つこともあります。本は人間よりも長く生きるのです。そうした可能性を考えたとき、すべての本が等しく手をかけて作られていてほしい。理想論かもしれませんが、そう願わずにはいられないのです。 

「すべての本に」(p100)

 ちなみに、著者の牟田さんは、吉祥寺に住まわれているとのこと。ハーモニカ横丁。サンロード。中道通り。あるいは西友。もしかすると、知らぬまにどこかでわたしもすれ違っていた……そんなことがあったのかもしれません(し、そんなことはいちどもなかったのかもしれません)。


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