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リラックスの極意


『あ』から『ん』まで流れのままに
のびのび安気に参りましょう



最愛なる安へ

ハタ・ヨガにある死骸のポーズシャバ・アーサナのコツ、つまりリラックスをするためのコツは何でしょうか?

それは脱力することです。

では、脱力するコツは何でしょうか? 

ここで脱力"する"と言ってはいるものの、脱力するとはチカラを抜くことを"する"というより、チカラを入れることを"しない"ということです。

つまり"する""しない"に変わったその結果として、チカラの抜けた脱力状態に"ある"ということです。

ところが、この"しない"がとても難しいのです。

なぜ難しいのでしょうか?

それは、チカラを入れていることを自覚していないからです。

つまり、無自覚にチカラを入れているからであり、知らず知らずチカラが入ってしまっているからです。

分かるでしょうか?

自分が知らないことを止めるのは難しいのです。

という訳で脱力するためには、

チカラが入ってしまっていることを自覚するための練習をする必要があるのです。

そして、

自覚したとき、"する""しない"に変えることができるのです。

自分が知っていることを止めるのは易しいのです。

無駄な努力の自覚
無駄な努力の放棄

これがリラックスの極意です。



ここからは心からリラックスを深めるためのお話です。

「左へ曲がるべきか? 右へ曲がるべきか? それともこのまま直進した方が良いだろうか?」

あなたはいつも「何をどのようにすれば自分の望まないことが避けられ、自分の望むことに辿り着けるだろうか?」と正しい行為を模索することに苦悩しているのです。

正しいことをすれば……

損をせず得をするはずだとか、負けずに勝てるはずだとか、劣っておらず優れているはずだとか、叱られず褒められるはずだとか思い込んでいるからです。

つまりは、自分が嫌う悪い結果を避けられ、自分が好む良い結果を得られ、今ある不安が解消され安らぐことができるはずだと信じているからです。

確かに、左へ曲がれば損をしたと思う出来事に遭遇し、右へ曲がれば得をしたと思う出来事に遭遇するかもしれませんし、直進し続けていたら災難だと思う出来事に遭遇するかもしれません。

承知の通り、何をどうするかという行為の結果として、人生の状況が変わるのは事実といえるのです。

ところが、左へ曲がろうが右へ曲がろうがそのまま直進しようが本質的には何も変わらないのです。

それはつまり、今ある不安が解消されることはないということです。

繰り返します。

あなたが何をどうのようにして、何を得ようと、人生の状況がどう変わろうと、あなたの不安が解消されることはないと言っているのです。

ですから、あなたが何を"する"か、どのように"する"かは、まったく重要なことではないと言っているのです。

あなたはきっと、左へ曲がって損をしたと思えば悲しみのなかで不安が増したように思い、右へ曲がって得をしたと思えば喜びのなかで不安が消えたかのように思い、あるいは直進して災難に遭ったと思えば絶望することでしょう。

しかし、ここで考えなければいけません。

何かを得ることによって、本当に不安が消えるのか? という問題の本質を。



得ることによって喜んだのも束の間、次にあなたが思うことはと言えば、「得たものを失いたくない。もっともっと多く得たい」です。

そうではありませんか?

一体どうしてですか?

この問題から逃げ回らずに、今、真剣に向き合わなければいけません。

答えは単純明確です。

もちろん、不安だからです!

何かを得ることによって不安は消えるどころか、増えていることが分かるでしょうか?

得たものはいつか必ず失われることを知っているあなたは、「失いたくない。もっともっと得なければならない」とますます追い詰められていくのです。

あなたはこれまで、何を得ても、人生の状況がどう変化しても、問題は何も解決されていないことに気づいてこなかったのです。

だからあなたは、「自分にとって悪い結果を招くような間違ったこと(失敗)をしてはいけない。自分にとって良い結果を招くような正しいこと(成功)をしなければいけない」などと、今も脅迫され続けているのです。

そうではありませんか?

だからあなたは、「あれが良いだろうか、これが良いだろうか、ああすれば良いだろうか、こうすれば良いだろうか……」などといつまでも、いつまでも、いつまでも、いつまでも、似通った選択を迫られ、頭を悩ませ、右往左往して安らぐことができずにいるのです。

そうではありませんか?

あまりにも「行為とその結果」に固執しているため、問題の本質を見逃し続けているのです。

それは肉体の死後も続き、次なる生へと続き、繰り返し繰り返し、いつまでも、いつまでも、いつまでも、いつまでも、良い結果を求めて彷徨い、模索し続けると言われています。

これが「輪廻転生りんねてんせい(サンサーラ)」などといわれる束縛です。

何を得ようと、人生の状況がどう変化しようと、「不安の原因」が残り続けているのです。

分かるでしょうか?

あなたは「不安の原因」を知っていますか?

もちろん、知っている!!

あなたである私は、長いことこの問答を独りしゃべり続けているようなものなのです。

し、し、知らない!!(笑)

お答えしましょう。

「不安の原因」は〈心〉です。

これは何度言っても言い足りないほど重要なことですが、何度言っても「行為とその結果」に取り憑かれている〈心〉には、まさに笑ってしまうぐらい届かないものです。

それでも、とても重要なお話ですから何度でも言いましょう。

「不安の原因」は〈心〉です。

それ以外にはありません。「不安の原因」は〈あなた自心〉にあるのであり、「不安」と「人生の状況」とは何の関係もないと言っているのです。

あなたは知っているはずです。

あなたの嫌なことを楽しんでいる人を、あなたの恐れていることに立ち向かう人を、あなたなら避けることを求めている人々を、あなたにとっての失敗(禁止事項)をまったく気にしていない人々を。

あなたと、その人と、いったい何が違うのでしょうか?

〈心〉です。

あなたはこの原因をなおざりにして、何をどうすれば不安のない人生の状況を得られるだろうかと頑張って努力(苦悩)しているのです。

頑張るな!!

頑張る(無理する、無駄する)から苦しいのです。

それは泳げない人が、どうにか沈まないようにしようと手足をバタつかせ、息を荒げ、苦しんでいるようなものです。

苦しみの原因はもがくこと自体にあるのであり、もがくのを止めて、手足からチカラが抜けたなら、自然と身体は浮いて楽になるのです。

泳げる人なら知っているこの単純な真理をいつまでも無視しているあなたは混乱しているのです。

分かるでしょうか?

混乱しているあなたは「私の理想通りになるなら、私は安らぐはずだ、幸せになるはずだ、満たされるはずだ」などと盲信しているのです。

そう信じているからこそ、あなたは今の状況に不安を感じ、不幸を感じ、不満を感じているのです。

あなたは知っているはずです。

あなたの周りの人々(母親、父親、妻、夫、兄弟、姉妹、息子、娘、上司、部下、親戚、隣人……)が、まったくあなたの理想通りにならないことを。

それどころか、あなた自身の身体も心もまったくあなたの思い通りにならないことを。

あなたのその身体は、あなたが老いたくないと思っていようが老い、病みたくないと思っていようが病み、死にたくないと思っていようが死に、別れたくないと思っていようが別れ、会いたくないと思っていようが会うのです。

あなたのその心は、早起きしようと思いながらも寝過ごし、腹八分目にしようと思いながらも食べ過ぎ、嗜好品を控えようと思いながらも手を出し、物を減らそうと思いながらも買い足すのです。

あなたのその心は、癒そうと思いながらも傷つけ、正直でいようと思いながらも嘘をつき、与えようと思いながらも奪い、穏やかでいようと思いながらも声を荒げ、感謝しようと思いながらもグチグチ不平不満をもらすのです。

そうではないでしょうか?

あなたは矛盾と葛藤に満ち、あなたの身体と心さえどうにもならないのに、あなたは、あなたの周りの人々をあなたの理想通りに変えようと努力(苦悩)し続け、変えたいと願い、変わるべきだと無理強いし続けているのです。

あなたは、あなたの理想通りにならないことに悩み、腹を立て、苛立ち、不機嫌になり、運命を呪っているのです。

諦めなさい!!

何もかも理想通りにはならないのです。たとえ理想通りになったかのように思えても、それは必ず部分的、一時的であり、あなたの不満も不幸も不安も残されたままなのです。

そしてもちろん、不満の原因も、不幸の原因も、不安の原因も残されたままであることを忘れてはいけません。



あなたの理想とは、あなたの妄想であり、幻想であり、つまりは『夢』です。

『夢』を叶えようとすることは素晴らしいことでしょうか?

『夢』は叶えるべきでしょうか?

あなたは『夢』という言葉の魔法にかかっているのです。

『妄想』を叶えようとすることは見窄みすぼらしいことでしょうか?

『妄想』は捨てるべきでしょうか?

あなたは『妄想』という言葉の魔法にかかっているのです。

諦めなさい!!

諦めるとは妥協ではなく、自分の理想通りにしようとする〈心〉こそが自分を苦しめていたことの理解であり、その無益で無駄な努力を自覚し、その努力を手放すことです。

無駄な努力の自覚
無駄な努力の放棄

それは人生で遭遇する出来事のあるがままを受容する態度、あるいは自然の流れに身をまかせる態度、あるいは運命を受け入れる態度、あるいは神に明け渡す態度などと言えるものです。

それが不安の原因である〈心(あなた自心)〉を無くす方法です。

あなたは、「そんなことは怖くてできない。したくない。不可能だ」と、今までと同じようにあなたの盲信に従い、不安から逃れようと頑張って努力(苦悩)するのです(笑)

今の今まで必死に握っているその手を放すのが怖いのです。それはまるで手を放したなら、途端に"崖下"に落ちてしまうと信じているようなものです。

それはあなたの盲信です。

実のところ、あなたは"崖上"にいるのではなくずっと"海底"にいたのです。ですから、必死に握っているその手を放したなら、途端にあなたは"水面"に浮上していくのです。

手放しなさい!!

途端に、あなたは人生の息苦しさから解放されることでしょう。



かのゴータマ・ブッダは言いました。

諸々の覚者は「忍耐と寛容」は最高の苦行であり、涅槃は最高(の境地)である」と説く。(忍耐力も寛容さもなく)他者を傷付ける者はまったく出家者ではない。他者を悩ます者は修行者ではない。

ダンマ・パダ|第14章|184節

ここでの「忍耐」とは、「怖いからと避けよう/欲しいからと求めよう」とする〈心〉、つまりは「自分の理想通りにしたい、しよう」とする〈心〉を抑制することを示し、「寛容」とは、人生で起こる出来事のあるがままを受容する態度、つまりは「自分の理想通りにしたい、しよう」とする〈心〉が放棄されている状態を示しているのでしょう。

ここでゴータマ・ブッダは、「諸々のブッダ(心が見る"夢"から覚めた者)たちはこれこそは苦(不安)を焼き尽くすための最高の修行であると説く」と教えているのです。



かのイエス・キリストは言いました。

私の兄弟たちよ。さまざまな試練(誘惑)に会うときは、それを最高の喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じることを、あなたたちは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。

ヤコブの手紙|第1章|2節

ここでの「信仰」とは、献身であり、唯一神(主)へ自分自身を明け渡すこと、つまりは「自分の理想通りにしたい、しよう」という〈心〉を放棄することを示しているのでしょう。

ここでイエス・キリストは、人生で遭遇する様々な出来事に誘惑されたときこそ、「自分の理想通りにしたい、しよう」という〈心〉を忍耐(自覚抑制)することができ、その〈心〉を放棄することができるのですから、それは最高の喜びと思いなさいと教えているのです。



補足1 ヨガ雑学
ゴータマ・ブッダの教えを受けた人々は、自力本願タイプ、つまり人生苦を自らの探究によって消し去ろうとする人が多っかったようで、それは智慧のヨガ(ジュニャーナ・ヨガ)に相応しているといえます。
・ 忍耐=修習 しゅうじゅう(アビヤーサ)
 → 対象へ向かう心を抑える
・ 寛容=離欲りよく(ヴァイラーギャ)
 → 対象への無関心、無執着

イエス・キリストの教えを受けた人々は、他力本願タイプ、つまり人生苦を信仰の対象によって消し去ってもらおうとする人が多かったようで、それは信愛のヨガ(バクティ・ヨガ)に相応しているといえます。
・ 信仰=信愛しんあい(バクティ)
 → 献身、帰依、奉仕

人生の不安を消す方法はこの2つ以外にはありません。要点は〈自心〉を克服することにあり、実際には自力(智慧)と他力(信愛)は互いに支え合っている同じ目的へ向かう1つの方法と言えるものです。


補足2 仏教雑学
日本で一般的に知られている『南無妙法蓮華経なんみょうほうれんげきょう』や『南無阿弥陀仏なむあみだぶつ』にある『南無』とは、サンスクリット語の『ナモー』の音訳と伝わっています。その意味は「礼拝(帰依、信仰)」です。

妙法蓮華経みょうほうれんげきょう』とは『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』という大乗経典を漢訳した言葉であり、和訳すると『正しい真理・白蓮・経典』となります。『白蓮』は【純粋な心、真心、聖心】を象徴しており、純粋な心とは「自分の理想通りにしたい、しよう」とする〈私心〉の無い心を示しています。
つまり『妙法蓮華経』を意訳すると、「私心の無い心に導く正しい真理が書いてある経典」のような言葉になるでしょう。
※ 漢訳者によって「正法華経しょうほけきょう」「法華経ほけきょう」などとも題されている経典です。

∞∞∞∞∞∞
昔々、インドのあるところに人の心を癒すことのできる著名な心理カウンセラーがいました。

彼の講義を受けていた学生たち一人ひとりが「これは素晴らしい教えだ」とその講義内容をノートに書き留めておきました。

彼らの死後も、そのノートは後輩たちに引き継がれ、時代を経て補修されたり、書き直されたり、書き足されたりするうちに膨大な数になっていきました。

数百年後、心を癒す方法を求めて中国からはるばるインドまでやってきた学生がその膨大なノートを一冊いっさつ学びながら翻訳し、それを中国に持ち帰りました。

さらに数百年後、日本からはるばる中国までやってきた学生が、これはありがたい物だと中国語で書かれたノートをそのまま書き写して日本に持ち帰りました。

やがて日本では、中国語で書かれたそのノートを、唱えてさえいれば人の心を癒すことができるだとか、人を災難から救うことができるだとか、死者の心を癒すことになるだとか天国に行くことになるなどという噂が広まりましたとさ。

めでたしめでたし。
∞∞∞∞∞∞

仏典、あるいは仏(ブッダ)を信仰するとは、ブッダの教えを実践するということです。訳の分からないまま『漢訳仏典』を長々と唱えても、『南無妙法蓮華経』や『南無阿弥陀仏』をどれだけ繰り返し唱えても、ブッダの教えを実践していることにはなりません。
もちろん、経典とは生者が学ぶための書物であり、死者に対して唱えるような書物でもありません。

あなたはお経を上げることによって、一体どんな災難・不利益を避け、福楽・ご利益を得ようとしているのでしょうか? そんな効果が、訳の分からない言葉を唱えることによって本当に実現すると思っているとしたら、あなたはひどく混乱しているのです。

災難・不利益を避けようとするその〈心〉を、そして福楽・ご利益を得ようとするその〈心〉を、忍耐しなさい諦めなさい、というのがブッダの教えなのです。そしてそれこそが福楽・ご利益を得る方法でもあるのです。

補足3 キリスト教雑学
日本でも一般的に知られ楽しまれている『クリスマス』は、イエス・キリストが生まれてきたことをお祝いする日とされています。『クリスマス』とは『キリスト』と『ミサ』を合わせた言葉であり、『キリスト』は「救世主」、『ミサ』は「礼拝(帰依、信仰)」を意味しています。

『信仰』とは献身であり、唯一神へ自分自身を明け渡すことですから、唯一神を「信じる」ことではありません。それは信じたり、疑ったりする〈自心〉を放棄することを示しているのです。


諦めなさい!!

手放しなさい!!

それはあなたの頭上遠く離れた空から見ている人が「左にも右にも前にも後ろにもどこにも、あなたが安らぐことのできる場所はないですよ」と教えてくれているようなものです。
さらには「本当は私であるあなたもまた、今すでに道の上ではなく空にいるのですよ」と。

「ない場所を探し求めるという無駄な努力を止める決意をしなさい!」そして「本当のあなたとして在りなさい」と伝えているのです。

決意をしてしまえばたちまち、あなたはあなたの苦悩そのものである努力から解放されるのです。

まだ分かりませんか!!

不安を消すために自分の理想通りにしようと努力しているとは、リラックスするためにチカラを入れているということです。

この単純な矛盾に気がつきなさい!!

リラックスを邪魔しているのは、無自覚にチカラが入ってしまっていることなのです。

無理に無駄にチカラが入ってしまっていることを自覚し、そのチカラが抜けたとき、あなたは自然とリラックスにあるのです。

無駄な努力の自覚
無駄な努力の放棄

これがリラックスの極意です。

そのとき、あなたは【安】として"在る"のです。

安気に。

安気に。

Merry Xmas


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