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研究日記2023年5月の報告書

1. Podcast「だれかとどこか」のアップロード

4月から東大の助教2人でひたすら議論するPodcastチャンネルを始めた。今月も無事に週ごとに4本の動画と音声をアップできた。1週か2週に一度くらいVRや能や夢について自由に議論する時間は、それ自体以上に、あとから見返す機会が貴重なものとなっている。自分が何を話していたのか、話していた時の記憶と記録は、まるで結びつかない。自分も自分の話から想像を深める。まるで刺激をそこに保存しておいておくような感覚がある。

編集は時間がかかる。ただカットするだけでも毎回3、4時間ほど。写真家の友人の作る庭に出張した会では、結局15時間ほど編集に時間がかかった。それほどの価値があるのか、実のところ未だよくわからない。Discordチャンネルを作りそこでPodcastを聞いてくれた人と議論する場も設けているが、それが僕にとって必要なことなのか、誰かにとって良いことなのか、見極めあぐねている。誰かにとって良いことなら続ける価値はあると思う。僕としては、もう少し規模を広げたい。

今はチャンネルの登録者が88人で、Discordチャンネルに加わってくれている人が43人。再生回数は毎回150〜200回ほど。僕らのチャンネルはただゆったりと議論を聞いてもらうだけの場だから、ゆっくりと育てるように運営してゆくしかないのかもしれない。数よりも時間を重ねる、というのか、真剣さとリラックスさ、誰かへの価値と自分のためのこと、広さと深さ、そのバランスを探りつつ続けていく必要はある。

Discordはできれば小さな研究会のように、自分の大切なテーマのある人が持ち寄って議論できる場としたい。その輪も、もう少し広げたいと思う。できれば誰かの味方でいたいし、人が安心して依れる場所をつくりたい。

【→だれかとどこか YouTubeチャンネル】

【→Discordチャンネル】

2. パリコレへ行けそうなこと

7月にパリコレが開催される。人生で初めてコレクションを訪れることができそうで、今からわくわくしている。手違いやうっかりで招待状が届かない可能性も考えているのだが、もうフライトは取ったしコレクションの主催者の許可も得た。

行くことがいよいよ現実的になってきて初めて、服をどうしようかと悩んでいる。プレタポルテのコレクションならそのブランドの服を着ればよいのだろうが、オートクチュールのブランドなので選択は難しい。

7月にパリと、ベルギーとロンドンを少し巡ってくる予定でいる。

3. 青木さんと鈴木理策さんのイベント

Facebookか何かで青木さんがお知らせしているのをみて、建築家の青木淳さんと写真家の鈴木理策さんのイベントに参加した。

2人がそれぞれ2枚ずつ写真を選択し、それについて議論するという会だった。青木さんが選んだ写真は1枚目が鈴木理策さんによるポール・セザンヌのアトリエを撮影したもので、2枚目はルイジ・ギッリがアルド・ロッシの建築を撮影したもの。どちらも窓をモチーフとしていて、よく読むと非常に対照的な写真だった。

1枚目の鈴木理策さんの写真はセザンヌのアトリエの巨大な窓を、窓のそばから外を眺めるように写したもので、窓のガラスには内側の空間がいくらか映り込んでいた。本来はカメラの背後にあるはずの内部空間も映り込みによって重ねて一枚の写真の中に記録され、空間の不思議な重層性がそこでは描かれていた。

2枚目のルイジ・ギッリの写真は十字型の窓枠を画面の中心に据え、何も置かれていない真っ白な空間を映すもので、窓の外には大きな煙突が中央にシンメトリーに映り込んでいる。煙突はひどく平面的で立体感を欠いていて、窓の外の風景は平板であり、反対に内部空間には画面左から右へと明暗のグラデーションがついていて、それが内部空間の立体性を強調しているように思われた。

どちらの写真も窓という一枚の装置がいかに内外の空間を関係づけるかということを主題としつつ、そのありようは対照的である。前者では写り込みによって内と外が窓によって重ねられ一体化されているのに対して、後者では窓の外の平板性によってむしろ内部の空間の立体性が強調されている。

建築という立体を平面で撮ると、むしろそこから新たな立体の意味が発見されていくという行き来が面白いなと思った。

イベントの後には青木さんに近況報告などもした。

やはり青木さんの中にも問題解決の手段は建築でもコミュニティデザインでもARでもいいというフラットな感覚はあるようで、いろいろな手段をフラットに扱いたいと思って研究者からキャリアを始めてみた、というと「良いと思う」と後押ししてくださった。能面の集合住宅の話をちらっとすると「あれは面白かったね」とにやっとしてくださり、それも嬉しかった。

4. 「夢における空間論」の発信について

博論の延長戦として「夢における空間論」についての研究を深めるにあたり、何か目標のようなものを設定したい、と思うようになった。

ただ自分の放言としてそれを書くのではなく、できれば社会に対して発信しながら書きたいとも思った。そこでこのマガジンの継続を決めたし、同時に、知り合いの芥川賞作家の方に相談もした。

夢における空間論を高めたいし、世の中に発信したい。もっと多くの人に向けて届けてみたい。もし可能なら連載などしたいと考えている。興味を持ってもらえそうな編集者の方がいたら紹介してほしい。そういう、不躾なお願い事をした。

あまり力になれないかもしれないけれど、と言いながらその方はちょっとびっくりするような文芸誌の名前を2つほど挙げ、その部の方になら紹介できると思う、と言ってくれた。そこなら親和性があると思うから、と。今は出版業界もタフだから、連載は難しいかもしれない、力にはなれないかもしれない、と言いつつ、実際に紹介してくれた。

僕には、それがこの上なく嬉しかった。もはや原稿を書けるかとか連載できるかとかそういうことを抜きにして、自分の憧れる人に、他人に紹介してもらえるくらいに信頼してもらえているということがとても嬉しかった。それはここ最近で一番くらいに素晴らしい出来事だったし、「頑張ろう」という気持ちを一層強くした。

5. ロイヤル・フィルハーモニーと辻井さん

5月の末に、ピアニストの辻井伸行さんと、ヴァシリー・ペトレンコさんの指揮するロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートに行った。とても人気のコンサートだったらしく、チケットも高くて3万円くらいした。観る価値は十二分にあった。

初のサントリーホール。

ロイヤル・フィルハーモニーの演奏は極めて視覚的なイメージを喚起する。ヴィオラやバイオリンの重なる場面では、柔らかい絹の川がうねりながら流れるようなイメージが見えた。フルートの演奏では香りが視覚的に立ち上るように見えた。その中に、弱い光のまとまりが浮かび上がるように辻井さんのピアノが鳴っていた。

辻井さんのピアノはなんというか、中性的にみえた。男でもなく女でもなく、引くでもなく押すでもない。辻井さんの周りを、地面にむかって狭まっていく、透き通る灰色で多面体の洞窟が覆っているような風景をイメージした。その中性さは、チャン・ハオチェンなどと比べても、圧倒的な異色の個性に思えた。

豊かで魅力的な視覚イメージを作り出すオーケストラに対し、辻井さんのピアノはどこか頼りなくもみえた。辻井さんは視覚的な手がかりのない中、どのように音を理解するのだろう。森や湖などいろんな情景を描こうとする音楽を、どのように読み解くのだろう。あるいは楽譜をどう読むのだろう。そんなことをふと考えた。触覚を通して音を理解するのだろうか?

しかしふと思い立って目を閉じてきいてみると、その印象は逆転した。色に満ちていて、立体的なゆれや広がりを多様にもっている音像がそこに立ち現れた。それはどこまでも優しく、柔らかく力強かった。そして雄弁で優雅だった。次第にロイヤル・フィルハーモニーの音は、視覚的な何かの秩序によってあまりに整理されすぎた音のようにも思われた。ヨーロッパの軍隊の行進の足音のように、その音の背後にある秩序の存在が感じられた。

見ている中で聴く音と、目を瞑っている中で聴く音が、これほど変わるとはと驚いた。視覚的なイメージの広がる演奏と、目を瞑ることでひろがる鮮明な世界の対比。自信と迷いが目をつむり開くたびに逆転するような体験が、とても面白かった。

そういう差があるのかと感じ入っていたら、アンコールの1つ目の辻井さんの演奏は明らかに目が見えている人の弾き方というか魅せ方になっていて「まあみんなが喜ぶそんなの俺は余裕でできるけどね」という感じがして愕然とした。素人の僕がみても尋常でないくらい正確で安定した異様な速弾きだった。

辻井さんのアンコールはその後2回目もあり(会場はどよめいていた)、そこではまた目を閉じると世界が広がるような楽しい音楽が演奏された。プロとしての超絶的なテクニックと辻井さんの中に広がる独特な世界を両方体感したような不思議な経験だった。

後半のロイヤル・フィルハーモニーだけの演奏では、始まりになにか粘度の高い群青色の液体がねっとりと身をうごかしているようにみえ、それが次第にほどけて銀色の絹の繊維が髪の毛のように広がっていく情景がイメージされた。その繊細でありつつダイナミックな変化はとても面白かった。

ただ後半、途中で少し疲れているようにもみえるというか、寝ているようにもみえる人とか首の角度が座っていない人が多数とか楽器にもたれているようにみえている人がいて、文化の違いなのかしらと訝しんだ。最後には静かな演奏に戻り、やはり繊細な響きをつくるような音の方が綺麗だなと思った。

あと、演奏会のチケットが高額であることもあるのだろうが、明らかに身分の高い人やバッジをつけた人々やいかにもお嬢様という雰囲気の人たちも多くいて、急に上流階級の中に紛れ込んだような、社会科見学に来たような気持ちもした。面白い体験だった。

6. Robert Glasperのライブ

ロバート・グラスパーのライブを見に行った。横浜まで。

音楽をやたらと見にいくようになったのは、一つには気分転換がその理由なのだが、裏テーマとしては村上春樹さんと小澤征爾さんが音楽の上手い人は文章が上手いと話していたのをみて、音楽的な感覚を身につけてみたい、と思ったことがある。

ジャズピアニストの山中千尋さんの文章はとても軽快で読みやすかったし、吉田秀和さんの文章はとても流麗だった。夏目漱石の文章には能の謡のリズムが流れている、とはしばしば指摘されるが、少しずつ身につけた音楽の理解と体感が文章に影響を及ぼすことを期待して、音楽を聴いてみている。

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旧「2023年3月に博士論文を書き上げるまで」。博士論文を書き上げるまでの日々を綴っていました。今は延長戦中です。月に1回フランクな研究報…

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