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人生においての「死」の受容

初記事にしては、重いテーマだが、

誰もが行き着く事実であり、

「死」は人生の着地点である。

「死」をゴールに捉えることで

これからの生き方を考え直し

人生の質を上げられるのではないかと

思い、記事作成に至った。

私の行動指針の核であるので、

参考になれたら、幸いです。


「死」を意識し始めた経緯


2019年、社会人2年目の春。

朝4時に起き、重たい瞼を擦りながら

4時50分発の電車に駆け込み、

片道約2時間をかけて現場に向かう。

「就活もっと頑張ればよかったな」

「大学も、違うところに行っていたら変わっていたのかな」

何てことを考えながら日々を過ごしていた。

大学生時代、特に何も考えず、就職先を決めた。

地元広島で、慣れ親しんだ友人達と

馬鹿騒ぎをしながら、一生を終えるのだろうな。

と、ぼんやり考えていた矢先、

東京の子会社への出向を言い渡された。

私の人生設計は一夜にして崩れ去っていった。

この時の後悔を押し殺しながら、

月曜日ー土曜日、時には日曜も働いた。

土日の晩は、仕事帰りの足で

同期や友人と愚痴を肴に、

泥酔するまで飲み歩いた。

ストレス発散の口実で

飲み代に金を溶かしていく。

そして二日酔いで月曜を迎える。

こんなルーティーンを繰り返していた。

入社時に上司に言われた、

「新人のうちは死ぬ気で働いて、遊びまくれ」

を体現しようと躍起になっていた。

しかし、違和感は膨れていくばかりだった。

当時は違和感の正体がわからなかったが

今ならわかる。

余裕がなかったのだ。

とにかく心の余裕がなかった。

同期や先輩よりも働いて遊んでいると

見栄を張る事に必死だった。

私の中で記憶に残っている

その象徴的な出来事の一つに、

目の前で転倒した御老人を

スルーした経験がある。

遅刻してしまうを言い訳に、無視した。

その瞬間に居合わせたスーツ姿の人々も

私と同様だった。

その後すぐ、女性の方が駆け付けていたが、

この時、私は無意識にこんな事を思った。

「なんで俺の前で転けんだよ。タイミング悪いなぁ。」

社会人になってから、このような、

人として最低な事を考えてしまう

クズに成り下がっていた。

それほど、心が痩せ細ってしまっていた。

そんななか、

とある月曜、いつものように電車に駆け込んだ際、

ある書籍の広告が目に入る。


DEATH 「死」とは何か。


全くやりたくない仕事と、不毛なストレス発散飲みに

明け暮れる日々に嫌気が差していた私は

その広告を無意識に見つめていた。

そうだよな、自分も家族も友達も

いつかは死ぬんだよな

そんな「当たり前」の事実を忘れていた私は

その日から、「死」についての関する記事を

見漁るようになった。


今死ぬとしたら、何を思うか。

死は誰にとっても平等である。

世界一の富豪とあいりん地区のホームレス

学校の人気者と理不尽な目に合ういじめられっ子

大企業に勤める期待の若手と黒企業のお荷物社員


全員に平等に「死」という終わりがある。


私も例外ではなく、いつかは死ぬ。

少し怖くなったが、それと同時に

自分はどう死ぬのだろうか

仮に今死んだらどうだろうか

と考えることに興味が湧いてきた。

もちろん今、死にたくはない。

何故まだ死にたくないのか。

死には強い痛みが伴うから。

家族、友達、仲間に会えなくなるから。

上記の人が悲しむかもしれないから。

まだ若いから。

挙げればキリがないが、

最もしっくりきたのは、

やりたい事をできていないからだ。

じゃあ、どうすればやりたい事ができるのだろう。

と考えたら、

「バケットリストを書いて達成していく」とか

Only Live Once(人生は一度きり)」

と謳って「今を全力で楽しもう!」

「やりたい事だけをやろう!」的な感情論で

解決しようと試みたが、

次第に、これには違和感を覚えた。

理由は明白で、仮に皆がやりたい事だけをやったら、

誰もがやりたくない汚れ仕事を誰がやるのだろうか。

今、その仕事を請け負ってくれている

「誰か」のおかげで、

自分の人生は成り立っているかもしれないのに。

そもそも、働きたい人などいるのだろうか。

死ぬまでの充分な食糧があれば私は、働きたくない。

世界中の幼い子を持つ親たちが、子育てを放棄して

やりたい事だけをやり始めたら、

子ども達はどうなるのだろうか。

やりたい事を我慢しろといいたいのではない。

やりたい事ができない人生は、本当にクソだと思う。

そこでやりたい事をこう解釈した。

やりたい事=自分の心を満たしてくれるコト・モノ

こう捉えると、

やりたい事は必ずしも自身の欲望や

願望に紐づいてはいないことがわかる。

例えば、道に迷っている海外の方に

わからないなりにも頑張って英語で

道案内をして、感謝されたらどう思うだろうか。

おそらく、良い事をしたなと自己肯定感を得ると思う。

英語の勉強を始めるキッカケになるかもしれない。

自己肯定感を得るということは、

心を満たしていく為には必要不可欠だ。

しかし、それは時間が経てば、薄まっていく

だから、継続して得ていかなければならない。

誰かの為に自分の時間を消費していく。

そんな自分に誇りを持つ。

そうしていけば、なりたい自分に

必然的になっていくのではないか

と私は考えるようになった。

本当に仕事を楽しんでいる人にはこういった

仕事を続けられる「核」があるのではないだろうか。


「死に様」から人生を設計し直す。

私はどう死にたいのか。

と、考えた結果、

人に感謝されて死にたい。

お前がいたから頑張れた。と言われたい。

と意外にあっさり結論が出た。

どう死にたいのか分かれば、

後は簡単だ。

そういった人間になれるよう行動するだけだ。

自分の望む死に様から逆算して、人生を設計し直せばいい。

人に感謝されるには何をすればいいのだろうか。

どのような能力が必要なのか。

もしくは自分は何をやって、感謝されたいのだろうか。

直接的ではなくとも、巡り巡って、誰かを助けれるかも

しれない。

誰かと頑張りたいなら、夢や目標を堂々と語って、

同じ志を持つ者と実現に向けて切磋琢磨していけばいい。

悔いはなくすものではなく、残すもの。

北斗の拳の宿敵、ラオウの名台詞である

「我が生涯に一片の悔いなし。」

があるが、人に欲望がある限り、

悔いなしに死ぬことなど不可能だと考える。

じゃあ、どうすればいいんだよ。

となるが、

本当に必要な物だけ達成すればいいと思う。

これをやっておかなければ、

自分の人生を誇れないだろう

ということを。

後は、敢えて残して、次の世代に託せばいい。


結論

なりたい自分=理想の死に様

を頭に描くことで、

今を、これからを、変えていける。

と、私は信じている。

「死」の存在を受容することで、

自分の時間が限られていることを

意識できる。

これからの時間を何をするかを考えて、

あなたがあなたを誇れる時が来たら、

私は嬉しく思う。


拙い文章を最後まで読んでいただき、御礼申し上げます。

より人を惹き付けられる文章を綴れるよう精進します。


































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