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【インド旅】(7) 仏教の聖地ブッダガヤで瞑想
ブッダガヤの印度山日本寺で瞑想した話。
(↑印度山日本寺での坐禅中に撮影)
僕は2015年、20歳の夏にタイの山奥にあるお寺で、5日間の瞑想修行をやったことがある。
5日間の修行中は、毎日6時間の坐禅。。朝は6時に起きて掃除。食事は1日2回オールベジタリアン。誰とも話してはいけない。
もちろん「悟りを開く」ことはないんだけど、この瞑想修行は自分としてすごく学びが多かったのです。(ここでの学びの話は長くなるので、割愛します)
なので、今回も「新しい学びが得られるのではないか」と、ブッダガヤで瞑想することを楽しみにしていました。
結論、全然ダメでした。
考えてみれば、2日間、1日1時間だけの修行で、何かを得られるハズないですね。
外見上は静かに座禅を組んでいても、全然集中できていなくて、形だけの瞑想になってしまいました。
自分なりに原因を考えてみたところ、今回は「ブッタが悟りを開いた地で修行してるし、当然、何か得られるっしょ!」という、他力本願な気持ちがありました。そして、真摯さも足りなかったです。
思い出してみれば、2015年にタイで瞑想修行した時は、朝昼晩の毎日3回、決められた時間に瞑想をして、当然wifiもないし、そもそも他人と話をしたり活字を読むことも控えることになっていました。修行と修行の間には、境内を掃除したり、散歩したり、自分で座禅を組んだりしていました。
対して、今回は「聖地」で1日1時間だけ、空いてる時間は自主的に座禅ではなく、スマホか飯か観光。雑念まみれ。
「聖地」で浮かれた気持ちで取り組むより、聖地でもなんでもないただの山奥で静かに真摯に取り組んだ方が、得られるものが多いのは当然でした。
「自分を変えるには、まず環境を変える」ことが大切だと言われていますが、「環境を変える」だけで全てが解決されるわけではなく、新たな環境で真摯に集中して物事に取り組まないと、むしろ「前より良い環境が、自分を変えてくれるハズ」という「甘え」に繋がってしまうことがあるということを学びました。
「環境を変えたから、はい、安心」ではなくて、その変えた環境をどれだけ「有効利用」出来るかが重要であって、環境を変えるだけで安心しきってしまったら、一見「良い環境」も悪い方向に作用してしまうことがあるんですね〜。
というか、ミャンマーやタイからの本物の修行僧の人たちにとって「聖地ブッダガヤ」は「良い環境」かもしれないけど、僕みたいな「にわか瞑想ボーイ」にとっては「悪い環境」だったのかもしれない…。
僕にはブッダガヤは、まだ早かったのか…!
同じ環境でも、人によって違うように作用することもあるんですね!
自分の他力本願な甘えのせいで、瞑想そのものからの学びは得られなかったけど、上に書いたようなことは学べました。転んでもタダじゃ起きないんだぜ。(←開き直りの神。過信/慢心の申し子。)
ブッダガヤでゆっくりと3泊4日を過ごした後、いよいよ、この旅のメインイベント「ガンジス川で沐浴」をするため、静かで落ち着いた仏教の聖地ブッダガヤから、騒がしく混沌としたヒンドゥー教の聖地バラナシへ、夜行列車で移動しました。
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