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同郷の星、有原航平。筆者の人生において、彼はどのような存在だったかを少しだけ語らせてほしい。③

②はこちらから。


はじめて迎えた夏。そこに航平の名は無かった。

 迎えた平成20年(2008年)夏。前年に野村祐輔(現:広島)小林誠司(現:巨人)などを擁した第89回全国高等学校野球選手権大会で、惜しくも準優勝となった広陵高校は、当然今夏も広島大会優勝チームの筆頭候補だった。そんな最強軍団広陵高校で1年生投手が躍動し、再び注目の的になる。そんな妄想を抱きつつ、広陵のメンバー一覧を見渡した時、衝撃が走った。有原航平の名前がどこにもない…

 広陵へ進学する際に携帯電話は解約し、連絡手段が全くなかったので、航平に関する情報は一切入ってこず、大学の同期によく広陵へ出入りしているOBがおり、今年入部した有原航平どんな?と何回か聞いてはいたが、いつ聞いても誰それ?というあまり認識出来てなさそうな返事が続いていた。あんな能力があってガタイがいい高校一年生が目立たないはずがないと、かなりの違和感を覚えていた。それだけ広陵がすごいのか?もしかして、誰にでも中井監督が直接行っているのか?と、少し不安にもなったが、あり得ないという気持ちのほうが強かったので、メンバー表を見るまで、航平が一年生投手としてマウンドに立つのは当たり前と認識していたのだ。

 結局、第90回全国高等学校野球選手権記念大会広島大会は中田廉(現:広島)上本崇司(現:広島)らを擁する広陵が2年連続で甲子園出場を決めたが、そこに航平の名は無く、彼が初めて迎えた夏は静かに終わってしまった。筆者は、自身が勝手に描いていた航平の成長曲線が初めて乱れたという事実にかなり動揺していた。ここで航平は終わってしまうのか…そんな不安がつきまとった夏になった。

今振り返ってみると、筆者が思い描いた航平の成長過程で、想定外だったのはこの年だけでした。

航平のお母さんとばったり…そこでわかった真実。

 その寂しい夏が過ぎたとある日、原付きバイクに乗って信号待ちをしている時、付近にある月極駐車場から見かけたことのある女性がこちらへと歩いてきた。なんとその人物は航平のお母さんだった。筆者はすぐバイクを路肩に止めて挨拶した。久しぶりにお会いしたので、色々とお話させていただいた。その中で、やっぱり航平の所在が気になるので、一体どうしたんですかと訪ねると、なんと航平は足を怪我しているとの事だった。怪我が長引き、そのせいで投球自体が出来ない状況が続いているようだった。筆者は心配したのと同時に少しホッとした。というのも、肩や肘などの厄介な箇所でなかった事、何より単純に通用しなくてメンバーに選ばれなかったわけではなかった事がその主たる理由だ。筆者は怪我が治ったら必ず活躍しますから!と太鼓判を押してその場を離れた。

 結局、秋のメンバーにも航平の名前はなく、チームとしても秋の県大会準々決勝で早々と敗北し、選抜の夢も絶たれた。”春の広陵”という異名を持つ広陵にとって例年より早く、夏まで11ヶ月先という途方に暮れるような長い冬が訪れるのであった。ただ、筆者にとってはこの想定外の低空飛行も、航平という秘密兵器がある限り、再び息を吹き返すと確信していたので、さほど心配はしてなかった。

 平成21年(2009年)4月。春の県大会で、航平はようやくメンバーに名を連ねた。ただ、この大会でも3回戦で早々と敗戦し、航平の実力もわからぬまま、広陵は夏にノーシードで挑むことになった。広陵の総合的な強さがいかがなものか、若干不安に感じたが、目標はあくまでも夏なので、まあその頃には仕上げてくるだろうと、ここでもあまり気にはしていなかった。

遂に頭角を現す有原航平。そこに立ち塞がるは…

平成21年(2009年)7月。第91回全国高等学校野球選手権大会広島大会が開幕した。広陵高校の背番号10を身にまとった航平は、この大会で遂に真価を発揮する。2回戦の対吉田高校戦では11回を1安打完封11奪三振、準決勝の対広島商戦は9回6安打1失点12奪三振と圧倒。準決勝まで36回2/3を投げ34奪三振防御率0.25という驚異的な数字を叩き出したのだ。ノーシードの王者は航平の活躍により3大会連続の甲子園まであと一歩という場所までたどり着き、投手有原航平という存在を県下に叩きつけたのであった。筆者からすると、やっと来たかと少し安堵した感覚だった。

第91回全国高校野球選手権広島大会

 そして来たる広島大会決勝の舞台、マツダスタジアム。筆者は、ここでようやく広陵ユニホームに袖を通した航平を、この目で見ることが出来た。久しぶりに見た航平は身長185cm、体はとてつもなく大きくなっており、広陵の横文字と相まって一段と存在感が増していた。さあ目指すは甲子園のみ、と言いたい所だが、筆者には複雑であった。何故かというと、それは航平の対戦相手、つまり決勝の相手が筆者の母校、如水館だったからだ。

    如水館も前年、秋の県大会では初戦で敗退したが、続く春の大会では優勝して、夏の大会第一シードを勝ち取り、ここまで”夏将軍”と呼ばれるに相応しい力を発揮して決勝の舞台へと辿り着いていた。ちなみに春の大会で広陵に土をつけたのも、この如水館だった。両校にとって不足なし、広島の高校野球ファンからすれば、この上ない好カードではあったが、こんな複雑な感情で決勝を見守るのは、間違いなく筆者ただ一人であったはずだ。母校の試合は必ずアルプス側で観戦するが、今回はアルプスではなくバックネット裏に陣取った。この状況については少しだけ想定してたが、この感情は全くの想定外であった。

広島県では1990年代後半から2000年代前半くらいまで春の広陵、夏の如水館と言われている時期がありました。いまは知りませんが多分この言葉は死語になったかと思われます…(泣)

たった一球の失投。息詰まる投手戦は如水館に軍配。

 ついに決勝の舞台が始まった。航平は如水館打線に対して、平均140km/hのストレートと縦に大きく曲がるスライダーを軸に、高校野球特有である左右の広いゾーン目掛けて精密に配球しており、これは簡単には打てない球だなと感心した。しかし、いきなりピンチはやってくる。3回表、単打と四球で1死1,2塁の場面、迎えるは今大会屈指の強打者、有山君。1打席目もライトにあわやホームランというフェンス直撃の3塁打を打たれており、航平にとっては最初の踏ん張りどころだった。初球は内角低めの直球が外れ、2球目は内角のスライダーを引っ掛けファウル。カウント1ボール1ストライクの3球目。広陵のキャッチャー石畑君が構える内側のコース目掛けて放った直球が、シュート回転して真ん中に入った。この球を有山君は逃さなかった。狙ったかのように振りきったスイングでボールを完璧に捉え、打球は前進守備をとっていたセンターの頭を超えていった。中継の乱れもあり、如水館が2点を先制した。広陵にとっては寝耳に水のような失点だった。正直、配球や守備位置などの指示が少し軽率だったような気がした。とにかく試合の序盤で主導権を如水館に譲ってしまった形になった広陵はその後、幾度のチャンスを迎えるもあと一歩の所で凡退し、残塁の山を築きあげた。結局、序盤の失点が尾を引き、広陵高校はあと一歩の所で夢破れた。

91決勝

 事実上エースとなっていた航平だが、先輩達を甲子園へ導けなかった事、たった1球の失投。彼にとってはかなり辛い夏になったであろう。ただ、航平はまだ2年生で来年もある。この夏を糧にさらに成長して戻ってくるだろうと感じた。久しぶりに見た航平は頼もしく、ここまで来ても、圧倒的未完成感は未だ健在。世に知られる存在となった航平のさらなる活躍を期待した夏であった。

   ちなみに、この年3年ぶりに甲子園出場を決めた如水館ですが、記憶に残っている方もいらっしゃると思いますが、この世代は2日連続雨天ノーゲーム後、高知高校に敗戦した世代です。当時の高知高校エース公文君(現:日ハム)の素晴らしいピッチングにやられましたね。不本意だったと思いますが、爪痕残せた世代が羨ましく思います(笑)


…分割させて頂きます(汗)


3/12 続き、書きました。下記リンクまでお願いします!

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【参考資料】

スポーツブル:全国高校野球選手権広島大会(2009年)

日刊スポーツ:広陵有原が11回1安打完封/広島大会

日刊スポーツ:広陵・有原12Kで夏V3王手/広島大会

日刊スポーツ:如水館が3年ぶり甲子園/広島大会

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