見出し画像

読書記録|本は物(モノ)である:装丁という仕事(桂川潤 著)

2023年7月。大学院以来の友人に誘われ文学フリマ札幌8へ出品した。1冊も売れないことを覚悟していたので、10冊程度お渡しできてほっとした。

数日後、見覚えのないアドレスからメールが届いた。homeport 山崎翔さんだった。自分の関心と重なるところが多く、一気に読了し、思わず感想を送ってみたい衝動にかられました。と嬉しい言葉が綴られていた。メールを往復する中で意気投合し、札幌で会うことになった。

2023年9月。初めてお会いした山崎さんに、地元である北海道大学やhomeport、周辺のお店を案内してもらった(旅の日誌)。初めて会った気がしないですねと山崎さんが言った。確かに、古い友人に再会したような、不思議な感覚だった。その時の会話は、2024年2月末の文学フリマ広島6に出品した。以前同様、10冊程度お渡しすることができた。

最近になって、もう山崎さんとは半年の仲になるのに、文学フリマに誘ってくれた友人の本をお渡ししていなかったことに気づいた。そこで、友人の著書である「遺1」と「遺2」をお送りした。
すると山崎さんから1通のお手紙と滝口悠生の「高架線」が送られてきた。

同封された手紙には、友人が書いた「遺」が強烈に印象に残ったこと、読み進めながら頭に浮かんできたのが滝口悠生の「高架線」であったこと、これを機に、滝口悠生の「死んでいない者」も購入して読んだこと、郵送の厚さの都合で「高架線」だけ同封したことが綴られていた。

私はとても嬉しくなり、友人に感想を伝えた。そして友人にも「高架線」を読んでほしいと思い、本を贈ろうと考えた。
Amazonで検索すると文庫版書籍がヒットしたのでこれを贈ろうか。電子版もあるからこっちも良いな。などと考えたのだが、同時に、何か違うという感覚もよぎった。
うまく言葉にはできないが、友人には「新品の高架線」や「電子書籍の高架線」ではなく、今手元にある「homeportから届いた高架線」を贈ることに意味があるのではないか。そう直感した。

直感した理由に思いをはせる。
最近「本は物(モノ)である:装丁という仕事(桂川潤 著)」を読み、強く共感したことを思い出した。

テクスト(text)は、テクスチュア(texture)、テクスタイル(textile)から連想されるように、本来「織物」を意味する言葉だ。       
   [中略]
対して、textにcon-(=共に)という強意の接頭辞を付けたコンテクストcontextは、「interweave=編み込む、縒り合わす(よりあわす)」を意味する。contextとは、要は「テクストをさらに編む」ことであり、それが「状況、文脈、背景」へとつながっていく。
   [中略]
「テクストのみ」の電子ブックに対し、「物である本」は、テクストのみならず、豊かなコンテクストを伴っている。装丁という仕事は、要はテクストに” 身体性(物質性)" というコンテクストを与えていく作業といっていい。装丁のみならず、編集や書籍販売など、本に関わるすべての仕事も、突き詰めれば、テクストにコンテクストを付与する作業、といって過言ではないだろう。

桂川潤 (2010). 「本は物(モノ)である――装丁という仕事」 p.220-221.

山崎さんから送られてきた高架線は豊かなコンテクストを持っている。
この本は、homeportの本棚にあった。それが偶然、友人の本に触発されて、東京に届いた。そしてまた北海道に住む友人の元に移動する。そうしてできた痕跡(ちょっとした汚れや折れ目)や軌跡が物体としての本に宿る。だから、新品の本では置き換えられない。
そう直感したのではないだろうか。

別の角度から語るとこうなる。
テクストという観点で見れば、新品の高架線も、電子版の高架線も、homeportから届いた高架線も同じものだ。
身体としてではなく情報として書籍を見る場合、3つはどれも置き換え可能であるし、金額の安い(経済性)、あるいは手間の少ない(生産性)方法を選ぶのが良い。だから、電子書籍が最良の選択だ。
これは、企業で働く私にとって、なじみのある考え方でもある。

しかし、コンテクストという観点から見れば、同じではない。
新品の高架線と、電子書籍の高架線と、homeportから届いた高架線は別物であり、どれも異なるコンテクストをもっている。
身体として書籍を見る場合、どれもが異なるコンテクストを持ち、一つの尺度からでは優劣が決められない。
私はいま、このコンテクストを大事にしたかったので、homeportから届いた本を贈りたいと思ったのだろう。だから私は、手間もかかるし、郵送費もかかるが、もらった本を贈ることにした。

身体性やコンテクストのことは、文学フリマ広島6へ出品した本でも言及している。
テクスト的考え方も、コンテクスト的考え方も大切だ。しかし、コンテクスト的に考えたほうが健康的なものを、無理にテクスト的に考えると不健康になるという話をしたように思う。近しいアイデアが本書にもみられる。

電子ブック問題とは、「身体」をスポイルし続ける「都市化=脳化」の帰結であり、「心と身体」という古典的相克を改めて問いかける問題なのだ。
一度失われた「身体」を取り戻すのは容易ではない。

桂川潤 (2010). 「本は物(モノ)である――装丁という仕事」 p.42.

いったんテクスト(情報)として置き換わってしまった個人に、コンテクスト(身体)を再発見してもらうこと。
自分が持つ置き換え不可能性を再認識する足掛かりとしての地元(ルーツ/根っこ)。そして地元の歩きなおし(観光/旅)。
一度失われた「身体」を取り戻す旅を支える、町医者としての研究者。
山崎さんとの対話は改めてそのように振り返ることができるかもしれない。そう感じている。

福岡ブックスキューブリックの大井実さんは、桂川潤さんとの対談での体験をこのように書いている。

(桂川さんは)「テクストを視覚的に追うことが読書ではなく、テクストを主体的に編纂し、コンテクスト(状況・文脈・背景)を作り出すことが読書である」という話をされた。
  [中略]
編集や書籍販売といった本に関する仕事も、突き詰めれば、テクストにコンテクストを付与する作業であるという話は、とても納得がいくものであった。地方の小さな本屋も町にコンテクストや物語を作り出す仕事と捉えれば、存在意義を感じて、楽しくやっていけそうな気がしてくる。

大井実 (2017). ローカルブックストアである――福岡ブックスキューブリック p.203-204.

なるほど。町のコンテクストや物語をつくる本屋(=たくさんの世界への窓がある本屋)がある。そこでは、本を手に取ったり、自分の本を置いたりすることができる。そして、本を読む/本を書く案内人=町医者としての研究者がいる。そんな場所があったら、町の風通しが良くなるかもしれない。

この記事が参加している募集

#文学フリマ

11,703件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?