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“現状に心地よく満足していてはいけない” という声 庄司紗矢香とカシオーリ

12月16日、サントリーホールで庄司紗矢香とジャンルカ・カシオーリのデュオを聴いた。

バタバタしてたので感想が遅れてしまった。

W.A.モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ 第28番 ホ短調 K. 304 (300c)
W.A.モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ 第35番 ト長調 K. 379 (373a)
C.P.E.バッハ:ファンタジア Wq. 80 (H. 536)
L.v.ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ 第9番 イ長調 Op. 47「クロイツェル」

《アンコール》
C.P.E.Bach:  ヴァイオリン・ソナタ ハ短調 Wq.78よりII-Adagio ma non troppo 

ヴァイオリン:庄司 紗矢香 
フォルテピアノ:ジャンルカ・カシオーリ 

庄司紗矢香とカシオーリのデュオはベートーヴェンのリサイタルを聴いたことがある。
庄司紗矢香は他の機会にも聴いたはず(ノット/N響でプロコフィエフの1番を聴いたことがある。N響でノットが聴けたのは今となっては貴重)

庄司紗矢香の印象を一言で言うと、「求道者」である。

五嶋みどり、諏訪内晶子もそんな感じだろう。
しかし庄司はその後塵を拝するどころか、常に最先端を行っているように感じる。

共演者選びも本格志向。長老メナヘム・プレスラーもいれば、鬼才ヴィキングル・オラフソンもいる。

そんな芸事に一切の妥協を許さないであろう庄司が長年共演しているのがカシオーリ。
作曲家でもあるし、庄司と同じく学究肌なのかもしれないが、庄司紗矢香のお眼鏡にかなうって凄いなぁと思ってしまう笑

さて、コンサートの感想。

前半のモーツァルトは退屈してしまった。そもそもフォルテピアノなので、サントリーホールの広さに比べるとこじんまりした感じが拭えない(しかし後半は聴衆の集中力を舞台上に集約させているように見えた)。

カシオーリの演奏が肩の力が抜けた遊びをところどころ感じさせるのに対し、庄司の音色が厳しすぎる。
ガット弦の響きもガサガサして聴こえ、流麗ではないし、うっとり酔えるタイプのモーツァルトではなかった。

第28番より第35番の方がよかったが、それでも目を瞑ってうとうとしながら聴いていた。

後半はよかった。

カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは大バッハの次男で、生前はヨハン・ゼバスティアンより人気があったらしい。

バッハ・ファミリーは今までほとんど聴いてこなかったが、バッハの亜流ではなくオリジナルな世界だと感じた。

今回の楽器に最もふさわしい曲ではなかったろうか。
幽玄で、能を見ているような不思議な心持ちがした。

トリの「クロイツェル」は第2楽章がよかった。
主題と4つの変奏曲からなるが、クラシックらしからぬジャズっぽいオリジナル?の変奏を挟んでいたように聴こえたのだが、どうだったのだろう(勘違いだったら赤っ恥😂)

アンコールも不思議な現代性のある曲だなと思ったらC.P.E.バッハだった。これから開拓したい作曲家だ。

岡本太郎の残した言葉に

今日の芸術は、
うまくあってはならない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。
岡本太郎『今日の芸術』

というのがある。

芸術鑑賞において、居心地のよいものばかり楽しむタイプの人もいるだろう。
自分の満足のいく価値観の中で遊ぶのだ。

私は本物の芸術というのはそういうサービスとは一線を画すと思っている。

そこには心地よさとは真逆の、ある種の居心地の悪さがあるはずだ。

庄司紗矢香はいつもその居心地の悪い世界にいるアーティストだと思う。

決して安住しない。満足しない。常に変化し、前進し、あるいは後退している。

同じところにとどまるのが芸術家にとって一番の堕落だとおそらく感じているだろう。

求道者である庄司紗矢香を鑑賞することは、第三者でいる態度を放棄することでもある。

芸術に向き合う態度を要求されるのである。

今回のリサイタルの収穫はC.P.E.バッハだった。
モーツァルトとベートーヴェンの今日の演奏がこの曲のベストとは思わないが、それらがあったおかげでC.P.E.バッハの新奇性が際立ったと言えるかもしれない。

“現状に心地よく満足していてはいけない”

探検家でもある庄司紗矢香はそうした声を常に感じさせる、貴重な、第一級の芸術家であると思う。

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