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良質な聴衆はそこに カンブルラン/読響の一柳慧

はじめに

サントリーホールで読売日本交響楽団を聴いてきた。

指揮=シルヴァン・カンブルラン
ヴァイオリン=成田達輝
三味線=本條秀慈郎

ドビュッシー:遊戯
一柳慧:ヴァイオリンと三味線のための二重協奏曲(世界初演)
ドビュッシー:イベリア(管弦楽のための「映像」から)
ヴァレーズ:アルカナ

プログラムの今日の曲目の解説は沼野雄司さん。読み応えのある解説。

沼野さんはこの本が気になってます😄

ザ・マニアック😅

プログラムの解説はお金を払ってちゃんとした音楽学者に書かせてほしい。
音楽ライターとかが2、3行で済ませてるのを見るとなんだかなーと思う。
ベテランじゃなくて若手の研究者でもいい。仕事の場を与えてください。
都響のプログラムの解説は毎回お金かけてる印象でした。

ドビュッシー

カンブルランの客演は3年半ぶりという。コロナ禍で2回来日が中止になったから間が空いてしまったが、常任指揮者を退任した後も定期的に呼ばれてるのは関係が良好な証拠。

以前から聴きたくて、今回初めてカンブルランを聴いたが、交通整理のような指揮だと感じた。
塾講師と言ってもいい。「今でしょ?」の林先生みたいに話がうまい。
難しい現代曲も、ホワイトボードの解説動画を見てるみたいにスーッと理解できる。

今日のカンブルランは指揮棒を使っていなかったが(いつも?🤔 チラシでは棒使ってるけど)、あえて不満を挙げれば指揮が単純すぎるというか、音楽が紛れる要素のない指揮なのである。

即物的というのか。カンブルランのリハーサルってとても理路整然としているのではないだろうか。プレイヤーがわからないことは何でも答えてくれるような。

カンブルランのドビュッシーは色彩感がある感じではなかった。
曲のモダン性、新奇性を際立たせるような音楽作りに感じた。
デュトワのドビュッシーは全然違う感じなのかも。聴き比べてみたかった。

私の好みとしてはもう少し綾というのか、ミステリアスで判然としないものがあってもよかった。
このタイプの指揮で他に誰を聴きたいかなぁと思ってしまった。
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン…みんな予想がついてしまいそう。
曲を聴き進めていくうちにギアが上がらないというのか、中盤での驚きがない。
ノットのショスタコーヴィチはどこに連れて行かれるかわからないスリルがあったが、カンブルランだとそうした不安感は少なかった。
とっつきにくい現代音楽をわかりやすく聴かせるのはうまそうなので、全然聴いたことないシャリーノとか少し前の現代音楽をカンブルランで聴いてみたいかも。

一柳慧

最初に通常と異なるライトの明るさで「黙祷」の時間が(客に強制しないのがよかった。みんなやってたとは思うけど😅)。指揮者、ソリスト2人がいったん退場して、ライトがついて通常通り再入場、拍手。

ロビーには池辺晋一郎さんの姿も。「戦友」だったのだろうか。
私は一柳慧さんの曲を聴くのは音源ふくめてまったくの初めて。新作をバリバリ書いてる現代作曲家というイメージしかなく、オノ・ヨーコの元夫だったりケージに学んだというのは亡くなってから知った。

今回のヴァイオリンと三味線のコンチェルトというのはかなり風変わりだが、一柳さんは「光の空間ー笙、オンド・マルトノ、オーケストラのための」という、やはり邦楽器と洋楽器のための作品も書いているようだ。

昔に比べると現代音楽の適性がだんだん身についてきた。
オペラシティの「B→C」では現代音楽も多く取り上げられるし、世界初演に立ち会ったこともよくある。
苦手な人はとことん苦手だろうが、ヨーロッパみたいにプログラムのうちの1曲が現代曲でもいいですね。

ただ今日の入りは半分以下?😂 1階席なんてガラガラで、定期演奏会がこれでは全然元が取れないよなぁと思ってしまった。
カンブルランの今回のプログラムは3つとも趣向的で素晴らしかったが、日本人には早すぎたかもね😭

今回の遺作は管楽器が不在。私には淡いグレーのグラデーションが細やかに広がる音景色に見えた。
たいていの現代曲は一回聴くと次はいいですって感じだが、この曲はまた聴きたいなと思ったし、小難しいとまでは感じなかった。

アンコールは、行かれた方のTwitterによると「Farewell to the Summer Lightー映画「さらば夏の光」のテーマ」だそうで。
初めて聴いたせいもあるのか、あまり演奏の出来はピンとこなかったです😓

ヴァレーズ

近くの客の事情で集中できず😓

「イベリア」から舞台転換はなく、追加の奏者が出てきただけのプログラム構成はさすが!と思いました。

今回の来日、バルトーク、ビゼー、ダルバヴィ(日本初演)、サン=サーンス、リゲティのプロとビゼー、ジョリヴェ、フローラン・シュミットのプロが。

近年こうした変化球的なプログラミングをする指揮者が減った。現代音楽にも明るいカンブルランならではだが、客入りが伴わないのならまた名曲路線に戻しちゃうかもなぁ😢 
マーラーの5番だったら完売だったかもね…

まとめ


前半も後半もいろいろ気が散る要因があったが、今回接したかぎりではカンブルランの音楽作りはやや分析的にすぎるというか、手取り足取り感が強く出てしまっていて、「説明できないけどなんか凄い!」みたいな予想を超える展開に乏しかった。
とはいえ、一柳慧作品のような現代音楽との相性はバッチリで、クラシックの既存の古典と大きくアプローチを変えることなく面白く聴かせる技をもっている。

今日の演奏会は奇しくも急逝した一柳慧の追悼公演になったが、それが世界初演という記念碑的な演奏会になったのも現代音楽を積極的に紹介してきたカンブルランが登壇したからこそ。
カンブルランでなければ、亡くなってから演奏会を組むという流れだっただろう。

「アルカナ」の終了後、さっさと会場を後にしてしまった人たち以外は熱心に拍手を贈り続け、ステージに現れたカンブルランをぐるっと取り囲んだ聴衆(それは決して多くはなかった)が拍手を贈り続ける光景は他のどんなカーテンコールよりも感動的だった。

なぜならそれは「良質な聴き手の実在」を感じさせたからだ。
一柳慧という日本の作曲史における大家の遺作をこんな形で聴ける機会はなかなかない。
その稀少性がわかっている聴き手だからカンブルランに惜しみなく拍手を贈ったのだろう。

最近はマナーの悪い人も音楽に深い愛着のない人も増えてきた。
サントリーホール満場の聴衆が心をひとつに!なんて、令和の時代では夢物語なのかもしれない。

でも、数は少ないかもしれないが、今日の演奏会の意義をしっかり受け止める聴き手もいる。
カーテンコールではカンブルランも拍手をし返していた。聴衆への感謝の気持ちもあったのかもしれない。

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