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レコ芸を知らない子供たち〜オタクのものでなくなったクラシック

かつて私はTwitter上でフォークソングの名曲「戦争を知らない子供たち」の替え歌で「レコ芸を知らない子供たち」「朝比奈を知らない子供たち」「功芳を知らない子供たち」という“迷曲”を“作詞”した。
(何度も断っているが、私はミスチル世代なので杉田二郎なんか同世代の100人のうち10人も知らないだろう。クラシック同様、時代を経てもなお歌い継がれる歌謡曲にも大きな関心があるのだ)。

クラシックオタクのカリスマ、宇野功芳が他界して早くも7年が過ぎた。

世間の人の大きな誤解に「クラシックコンサートはおしゃれをして行くもの」というのがある。
1つ星のレストランみたいに“よそ行き”の格好をして行くものだと思っているのである。

大きな誤解と言わねばなるまい。実際にサントリーホールやオペラシティで見かけるのは平日なら会社帰りの背広姿のおっさんが大半。

土日のマチネーなんてひどいものである。20年前にユニクロで買ったかのようなヨレヨレのチェックのシャツにしわしわのチノパンという格好も珍しくはない。

私も人のことは言えない。クラオタたるもの、服に回すお金があるなら一枚でも多くチケットを買いたい。それでこそクラオタだ。

結局お金を使う先がアイドルか鉄道かアニメかクラシックかという違いがあるだけで、オタクのお仲間というのに変わりはない。

クラシック文化はそうしたオタクファンに長年支えられてきたのだが、最近風向きが変わってきたのでは?と思うときがある。

以前出会った若者が「クラシックに関心があって、岡田暁生や小林秀雄の本を読んだ」と言っていた。
『レコード芸術』や宇野功芳からクラオタ道に入った私とはえらい違いである。

彼は「何の曲から聴いたらいいかわからない」と言っていた。
確かに岡田暁生や小林秀雄は「この指揮者のこのCDを聴け!」みたいな“下品な”ことは書いてなさそうだ。

その若者にとってクラシックは、一昔前の世代がそうだったように一種の教養だったのだろう。
フェリーニや溝口の良さがわかりたいというのと同じで、クラシックの良さを語れるのがある種の知識人ステータスのような。
オタク的アプローチとはまったく異なるのである。

最近はTwitter(私はXという呼称が嫌いなのでしばらくはこちらを使います)で「自分は○○オタク」と名乗るのを躊躇する人が増えたのだそうだ。
というのは、一度オタクを名乗るとその道の“先達”がわんさかやってきて袋叩きに遭うので、最近は「推し」と名乗るのが無難らしい。

「オタク」と「推し」の違いは何だろう?と考えたら、オタクは知識の量で勝負し、推しは愛情の深さで勝負するところだろうか。

もっとも最近はいくらお金を使うかで愛情を測るとてつもなく単純な価値観になっており、メン地下(メンズ地下アイドル)やライバーの投げ銭で「○○円使った!」とマウントを取り合うのが流行りのようだ。

オタクは「いくらお金を使ったか」より、「どれだけCDを聴いてるか」「どれだけ指揮者や演奏家を知ってるか」というポイントで争ってる印象がある。

先ほどの若者ではないが、最近クラシックに興味を持った人で身近に同好の士がいない場合、SNSで探すのだろうか。
昔は『レコ芸』がその役割を果たしていた。

前日見たテレビが会社での雑談ネタだったりした時代である。今のように娯楽が細分化しておらず、みんなで同じものを見て楽しんでいた。
『レコ芸』も日本全国のクラオタを教育し、感化し、啓蒙していたのである。オタクに養分を与えて育てていたとも言える。

そんなオタクの“神”が宇野功芳だった。

宇野功芳の何がいいかというと、ファンもいればアンチもいる、スルーできない強烈な存在だったことである。

いくらアンチだからといって、宇野の著書を一冊も読んでないようではクラオタとは言えない。
「吉田秀和だけ読んでればいい」というのは教養主義の極みで、オタクを名乗りたければ賛美するにせよ罵倒するにせよ宇野は避けては通れぬ道なのである。

宇野功芳は自分で頓珍漢な指揮もするからツッコミどころが満載だ。
そういう憎めないキャラが多くのファンを生んだのではないか。
山本益博が自ら包丁を握るなんてありえないと思うので、いかに宇野功芳がやっていたことが桁外れかがわかる。

『レコ芸』は飽きもせずに「名指揮者ランキング」などの企画を繰り返していた。こうした鉄板コンテンツは『レコ芸』が休刊するはるか前から日本の空気に馴染まなくなってきたのではないだろうか。

「みんなちがって、みんないい」が現代の在り方。アシュケナージのエルガーやシベリウスにどんな違和感を抱こうが「凡演」「駄盤」と言うのは下品とされるのである。

Twitterでプロの音楽家(といっても第一線級ではなかったと思う)が「SNSは本人も読むので否定的な感想は書かないで」と言う時代である。
もっとも人格否定、存在否定、罵詈雑言は好ましくないが、褒めるかスルーするかという二択で果たしてよいのだろうか?

かつてのTwitterは演奏会の感想にしても賛否両論あったように思う。侃侃諤諤の論戦があったりもした。
いまは迂闊に尖ったことを書いてバカに絡まれたくないという思いもあるのだろうが、「否定的な感想を発信するのは非生産的。スルーするのが大人の態度」というスタンスは私は少し寂しく思う。

最近はポケモンカードゲームが大人気だ。かつてのクラオタもベートーヴェンやブルックナーの「最強デッキ」を作っていたのだ。

ブルックナー4  ベーム/ウィーン
ブルックナー5  ティーレマン/ミュンヘン
ブルックナー7  カラヤン/ウィーン
ブルックナー8  朝比奈/大阪
ブルックナー9  ヴァント/ベルリン

私はブルックナー音痴なので適当に作ってみたが、こういうふうに自分なりのベスト盤をリストアップして、あるときはオタ同士で、あるときはプロの評論家に対しても「そんな盤を褒めてるようじゃねぇ……」と喧嘩を売っていたのだ。

いまの時代は「運命のベストは○○!」とか流行らないのかもしれない。
しかし、わかりやすいランキングがあることでいわゆる「名盤」に詳しくなり、定評のある演奏から名曲に入門することができた。
マニアックで個性的な演奏は名盤を押さえてから自分なりに探せばいい。

『レコ芸』も宇野功芳も存在しない現在、クラシックに開眼した若者はいったい何を頼りに大海に漕ぎ出せばよいのだろう。
Twitterを見たところで、その人にとっての名盤はわかっても、クラシック業界における名盤はわからない。

現代でも野球ファンはかつてのクラオタに近いのかもしれない。監督の采配に注文をつけられて一人前、みたいな世界だろう。
三浦監督の選手起用に文句を言ったからといって「じゃあ、あなたが監督になったらどうですか」なんて橋下徹みたいなことを言う人はいない。

それに対しクラシックは「楽器もできない人が……」「楽譜もろくに読めないくせに……」という空気が年々醸成され、「自分は音楽のことがあまりわかっていないので」という前置きをしつつ、「今日のピアノリサイタルはそれほど楽しめませんでした。気分を悪くされる方がいたらごめんなさい」とひたすら低姿勢なのが現代だ。うかつに頭を上げてたらハンマーで叩かれかねない。

『レコ芸』や宇野功芳といったクラオタ文化に活気と勢いがあったころにクラシックを好きになれてよかったと改めて思う。

かつてのクラオタはみんな「最強デッキ」を組んで仲間と遊んでいたのだ。

今のクラシックファンはそんな遊びをするだろうか。演奏の優劣を論じるのは意味がないと思ってはいないだろうか。

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