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実はラーメン批評と似ていたクラシック批評

今日のお昼はクリニック近くにある行きつけのラーメン屋で食べた。

私はラーメン屋があまり好きではないので、定期で通ってるのはそこだけだ。

まず、なぜ苦手なのか?を説明すると…

・並んでまで食べたくない。
・食べたらすぐ出ないといけないのが落ち着かない。
・「俺の人生の一杯を食え!」みたいなノリが暑苦しい。

などが理由である。

行列のできる人気店のカウンター席で食べるより、B級中華料理店のテーブル席で美味しくもなければ不味くもない中華そばを食べる方が好みなのだ。

今日のラーメン屋がなぜ好きかというと…(あ、バナーのラーメンはお借りした画像です)

・スープが美味しい。とんこつ醤油なのにくどくない。
・ドアが開放してあり、店員さんが適度に雑談してるのでお店の雰囲気が明るい。
・しかも親切。おまけに楽しそうに仕事している。
・人気店なのに並ばずに入れる。

などである。

要はお店の雰囲気も大事なのである。

さて本題だが、今日ラーメンを食べていてふと「クラシック批評とラーメン批評は似ている」と感じた。

そこのラーメンはとても美味しいと思うけれど、「東京でトップレベル!」とは言えない。

なぜか?

私がラーメンの食べ歩きをしておらず、「相場」や「世間」を知らないからである。

「この店、美味しいですよ!」と言うのが年間500杯食べてる人と私では全然説得力が違う。

日本におけるクラシック批評もこれに近いのではないか。
クラオタは文芸批評のようなアカデミックな文を期待していない。
「とにかく美味しい店教えてくれ!  行くから!」というノリなのだ。

そういう意味では、日本の音楽評論家に近いのは文芸評論家ではなく書評家と言えるかもしれない。

そういう類のクラシック批評に必要な力はおそらく3つだけである。

①リサーチ力
②表現力
③説得力

だ。

まず、①のリサーチ力だが、CD100枚持ってる人と10000枚持ってる人の違い、「運命」を3種類聴いた人と30種類聴いた人の違いである。

知ってる世界の広さは侮れない。いくら音楽の専門的知識を有していても、3枚の中から選んだ「運命」と30枚の中から選ぶそれでは重みが違う。

②の表現力は「オリジナリティのある形容や表現がどれだけできるか」ということ。

ヴァントのブルックナーを褒めるのにいまだに「精神性が云々」という言い回しをしてるようでは心許ない。
「精神性」とは異なる語彙でヴァントのブルックナーの良さを表現できてこそ一目置かれる。

③の説得力は、②で表現したものをどれだけ読者に納得させられるかというもの。

世の中にはショルティの「マタイ受難曲」という精神性の欠片もなさそうな音盤があるが、仮にショルティのマタイがリヒター超えの名盤と感じた場合、「リヒターを超える名盤!」と結論だけ書いても読者は納得しない。
「なぜそうなのか」を叙述して、相手を納得させられてこそ批評と言える。

ラーメン批評もクラシック批評も以上の3つの力が不可欠だ。もっともおすすめ系のレビューならどんなジャンルでもこれらの力は大事になってくるだろう。

そうそう、忘れていた。④再読喚起力も大事と言えるかもしれない。

このようなブログを書いていて、継続的に読んでもらい感想をいただけるのは当たり前のことではないと感じる。付き合いで読むにはブログの文章は長すぎる。

ブロガーなりプロの書き手の文章を継続的に読みたいと思えるのって、読み手の期待に応えてくれる信頼感があるからではないだろうか。

何を期待して読むかは人それぞれだ。独創的な着眼点だったり、個性あふれる言い回しだったり、あるいはバカにしたくて読む場合もあるだろう。

読むと毎回「演奏家に対する敬意の欠片もない!」と無性に腹が立つのに、なぜか毎回読んでしまう。そうなれば、書き手の勝利だ。

私もその域を目指したいものである😅

と書いたはいいが、①〜④を全部備えていても肝心の審美眼が狂ってたら大変だね😅💦

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