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囲碁小説「手談」#13

 小学生のころの彼女はまわりから注目されることのない地味な子供だった。
 幼稚園のとき母が病気で亡くなり、それ以来父の手で育てられた。父が仕事から帰ってくるまでは父方の祖母が面倒を見ていた。
 悪い人ではなかったが、心を開ける相手ではなかった。彼女は母を喪った悲しみをずっと癒せずに過ごしていた。
 彼女は勉強ができた。好きだったというより、友達と遊ぶことが少なかったので他にすることがなかったのだ。父は娘の将来に期待をかけて中学受験させた。
 中高一貫の女子校に入学した彼女は今までと変わらず毎日つまらなそうにしていた。そんな彼女に話しかけようとする子はいなかった。
 孤独な娘を以前から父は気にかけていて、彼女が中二のときに思いたって囲碁を教えることにした。
 父は全国大会に出場したこともあるアマチュアの強豪だった。だが最近は仕事で忙しく、碁を打つ機会はなくなっていた。
 彼女は父の趣味にまったく興味を持てなかったが、父は会社から帰ると御飯もろくに食べずに碁盤の前に彼女を呼んだ。
「今日は学校どうだった?」
 彼女には特に話すことがなかった。友達はいなかったし、部活にも入っていなかった。学校は黙って授業を聞いて帰ってくるだけの場所だった。
 娘の反応が鈍くても、父はあきらめなかった。
「些細なことでもいいから話してごらん」
 彼女は仕方なく授業で習ったことを毎日報告していた。でも因数分解の話ですら笑顔で聞いている父をだんだん不憫に感じてきた。ある日、彼女は初めて授業以外の話をした。
「茶瓶ってあだ名の先生がいる」
「茶瓶?」
 父は不意をつかれた顔をした。
「頭が禿茶瓶だから茶瓶ってみんなに呼ばれてるの」
 父は大袈裟なくらいおかしそうに笑った。母が亡くなってから父のこんな笑顔を見たことがあったかなと彼女は考えた。自分より父の方がつらい思いをしてるのかもしれないと申し訳なく思った。
 それ以来、父と碁盤を挟んで学校の出来事を話すのが日課になった。囲碁を教わりながら彼女の心は徐々にほぐれていった。父も対局の代わりに指導の喜びを見つけたように見えた。
 十九路盤で打てるようになったころには彼女と父はだいぶ打ち解けた関係になっていた。二人は母と妻を亡くした悲しみをようやく乗り越えた気がした。
 ある日、彼女はクラスメイトに「ノート貸して」と頼んでみた。真面目な彼女はしっかりノートを取っていたが、クラスメイトとの距離を縮めるためにあえて頼んだのだった。
 クラスメイトは彼女のことを気難しい人間とは思わなくなり、勉強ができる彼女は「ノート貸して」と頼まれるようにもなった。そんなやりとりを繰り返していくうちに友達ができ、学校に居場所ができた。
 高校に進学した彼女は、たった一人で囲碁部を作った。「囲碁? じじくさい」と鼻で笑う子もいたが、お小遣いで買った九路盤と碁石を使って友達に教えていると興味をひかれて見にくる子たちもいた。
 その集まりは《杉浦さんの囲碁講座》と呼ばれるようになり、他のクラスでも噂になった。休み時間になると彼女の机のまわりに人だかりができた。少し話を聞いて去っていく子が大半だったが、「意外とわかりやすいゲームなんだね」と言ってくれる子もいた。
 彼女はそれで満足だった。ルールさえ覚えればいつか碁石を握る気になってくれるかもしれない。それが十年後や二十年後でもかまわない。おばあさんになってからでも始められる。
 父が一から自分に囲碁を教えたように、いつか自分が教えた子が他の誰かに囲碁の魅力を伝えてくれたらそれが一番の喜びだと思っていた。
 彼女は父に連れられてたびたび碁会所に行っては老練な常連客相手に研鑽を積んだ。高校を卒業するときには三段になっていた。大学の合格が決まったころ、父が言った。
「若いころ全国大会で競い合った平林さんが教室を開いて、子供の指導の手伝いをしてくれる人を探してるみたいなんだ」
 彼女は喜んでその役目を引き受けた。自分は囲碁を始めるのが遅かったので、大学の囲碁部で同年代の子たちと競い合うより子供たちに囲碁の楽しさを教える方が向いていると思ったからだった。

 話し終えると、杉浦さんは照れくさそうに微笑んだ。
「囲碁が杉浦さんを救ったんですね」
「たぶん父は私に囲碁を教えることで何か大切なことを一緒に伝えたかったんだと思う。それが何なのかはうまく説明できないけど。でも実際私は囲碁を覚えて友達に教えたりして変わっていったし、まわりの子たちも私から囲碁を教わって変わったことがあるのかもしれない。だって高校生で友達から囲碁を教わるなんてまずないでしょう。そうやって誰かの持っている何かにお互い反応することで人は変わっていくんじゃないかな」
「杉浦さんのお父さんはね、それはもう強かったよ。私も大会ではよく負かされた口でね。対局中の気迫は人を寄せつけないほどの凄味があった。彼は大会に出なくなって久しいけど、碁を交えて玲奈さんと親子の絆を深められたのは大会で優勝するより何倍も嬉しかったんじゃないかな。何も対局で勝つだけが碁のすべてではないからね」
 先生が話しているあいだ、杉浦さんは俯いていた。涙を堪えているようにも見えた。

【囲碁用語】
十九路盤…囲碁の碁盤は主に三種類。九路盤、十三路盤、十九路盤がある。段階的に大きな碁盤を使うが、余興的に上級者が九路盤での対局を楽しむこともある。いまは六路盤も登場したらしい。最初は小さい碁盤からぜひ気軽な気持ちで始めてほしい。

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