資本主義において無くせる差別、無くせない差別

「資本主義と差別」



差別のない世界を目指す。



このスローガンに反対する人はいません。



では



「差別のない資本主義社会を目指す」



これは、「原理的に成立しません」と言わざるを得ません。



色々な経済学が提出されましたが、資本主義において富が生み出される原理はなにか、と言う点については、いまだに誰もマルクスを否定した人はいないのです。



資本主義社会に於いて、富はどうやって生じるのか。それは、労働者が労働力の再生産の必要な価値以上のものを生み出し、その差額を資本家が得るから、そこに富が生まれるのです。



堅っ苦しいですね。つまりこう言うことです。



労働者、つまり皆さんが働いて、富が生まれます。富というのは、常に労働が関与して生じるのです。ダイヤモンドの原石も、地下に眠る石油も、それを誰かが掘り出し、あるいは採掘し、ダイヤモンドであれば磨いたり研磨したりする、原油ならそれを採掘して精製して石油にする。こういう過程を経て初めて「価値」になります。ですから、あらゆる社会の価値は労働がなければ生じないのです。ダイヤモンドの原石は、只の石ころです。まあ、「この石の形がよい」と言って庭石にする人もいるでしょうが、それだってその石を掘り出して運んで、という過程には、必ず「人間の労働」が関わるのです。



労働をする人は労働者です。しかし、労働者はある条件を作って貰わないと労働出来ない。ダイヤモンド採掘であれば採掘現場があって、採掘する道具があって、そこに集められて採掘をします。そういうお膳立てをするのは資本家です。



資本家がお膳立てして、そこで労働者が労働することにより富が生じる。



しかしながら、資本家がお膳立てをし、そこで労働者が働いて生じた富を全て資本家が労働者に支払ったら?それは労働者は満額もらえるでしょうが、資本家はお膳立てした資金、つまり経費を回収出来ません。では現実には何が起きているのだろうか。



それはつまり、資本家は労働者に「労働力を再生産するために足る賃金」を支払うのです。またしても言い回しが難しいですね。簡単に言います。資本家は、労働者が生活出来、家族を養い、子供を育てるに足るだけの賃金を支払います。労働者は自分が生活出来て、家族を養えて、子供を育てられるだけの賃金を貰うのですから、それでいいでしょうという事です。



しかし、そうやって労働者に「自分と家族を養い、子供を育てられる賃金」を支払った後に資本家に何も残らなかったら?



資本家というのは、資本を投資しているから資本家なのです。資本を投資し、例えば工場を建てたりクリニックを開設したりして、そこで経営するお膳立てをします。そこで労働者が働いて富が生み出されるのですが、上に述べたように労働者に支払う給料が丁度労働者が生み出した富と同額であれば、資本家は何も得られないことになります。しかし資本家は資本を投入して工場だの、クリニックだのといったものを作り、お膳立てして、そこから収益を上げる必要があります。ではどうやってその収益は生じるのか。



それは間違いなく「労働者が生み出す富と、資本家が労働者に支払う賃金との差」が生じなければならないわけです。資本家が投資をして生産の場を作った中で労働者が働いて生み出された富を全て労働者に配分されたら、資本家には何も残りません。従って、資本家が賃金として労働者に支払う富はあくまで労働力の再生産に必要な量、つまり労働者が自分自身と家族を養い、子を育てるのに必要な量の富であって、労働者がそこで労働して生まれた富の全てではない。そこには、差額が生じるのです。というより、そこに差額がなければ、社会に富というものは生じないのであって、その差額が富となって社会を廻していきます。



この仕組みをマルクスは、「資本主義経済においては資本家が労働者を搾取することによって生じた剰余価値が経済において富を生み出し、それこそが資本主義経済の仕組みの根本だ」と言ったのです。



これは、その後幾多の経済学が提出されましたが、資本主義経済という仕組みにおいて根本的に富というものがどうやって生じるのか、と言う点を説明したものとして、まったく否定されていません。まさに、この「労働が生み出す価値と、資本家が給料として労働者に支払う労働力の再生産に必要な価値の差」、つまり剰余価値こそが資本主義社会に於ける富の原理的な発生機序です。それは、間違いがないのです。



「労働者が労働によって生み出す価値と、労働者が自分の生活をまかない、かつ子供を自生代に送り出すのに必要だから受け取る価値との差額」を資本家が得るのだ、と言うのを、マルクスは「資本主義においては資本家が労働を搾取することによって生じる剰余価値が経済の基本となる」と言ったのです。



こう説明すると、「搾取」という言い方には違和感を感じる方が多いと思います・・・まあ最近はむしろ同感する人の方が多いかも知れませんが。



マルクス在世当時は、まさに資本家は労働者から「搾り取れるだけ搾り取った」のです。マルクスが言う搾取は「労働によって生み出された価値の内、労働者が労働力を再生産出来る価値と比べたときの余剰」でしたが、彼が実際に目撃した資本主義社会は、それどころではありませんでした。「労働力の再生産」、つまり子供をきちんと育てて次世代の優れた労働力にするどころか、労働者本人がろくにものも食えず、結核になっても医者にもかかれず死んでいく。つまりマルクスが定義した「搾取」を遙かに上回る現実があったのです。



もっとも最近は、またマルクスが目にした通りの光景が広がっているとも言えます。労働者は医療保険を払う金も無く保険証を取り上げられ、まともに病院にもかかれない。本人がそうなのですから、子供をちゃんと育ててまともな教育を受けさせて世に出すなんてまったく無理。つまり「労働力の再生産」が出来ないほどに労働者の取り分が減らされている。



これは、マルクスが定義した「資本主義にどうしても必要な搾取」を超えた搾取です。



ですから、今の労働者、とりわけ若い労働者は、「労働者というものは資本家に搾取されている」と言われれば、すんなり腑に落ちると思います。しかしマルクスが経済学において定義した「搾取」はそれとは違うんですよ、と言うことは理解しましょう。



資本主義社会というものは、資本家が資本を投じて生産の場を作る。そこで労働者が労働して富を生み出す。労働者は労働力の再生産、すなわち自らと家族が暮らし、さらに子供を育てるのに必要な富を賃金として受け取るが、それと労働者が労働をして生み出した富との間には必ず差がなければならない。そういう差が生じることをマルクスは「労働者が搾取され、剰余価値が生まれることで資本主義は成り立つ」と言ったのです。



しかしながら、結局の所資本主義の原理はこうなっているのですから、搾取する資本家と搾取される労働者という関係は存在するのです。搾取する側とされる側がいますから、そこには当然「差別」が生じます。この差別は、資本主義経済である限りなくなりません。搾取する資本家なのか、搾取される労働者なのかというのは、資本主義社会に於ける「根源的な差別」です。搾取する資本家と搾取される労働者は、平等ではあり得ない。だからそこには間違いなく、差別が生じます。この「資本主義である限り必ず生じる根本的な差別」は、資本主義社会である限り、必ず存在します。



しかし、その他の余計な差別、肌の色だの、家系だの、生まれた土地だの、性的指向(嗜好ではない)だのと言った、「資本主義において本質的ではない差別」は無くすことが可能です。かつ、資本主義は労働者を搾取することによって生じる剰余価値を基盤として成り立ってはいますが、搾取によって生じる剰余価値は、資本主義社会を成り立たせるために必要な最小限で無くてはなりません。資本主義社会の経済を廻すために何も役に立たないとんでもない富の偏在、つまり現在のように世界の超富裕層1%が富の40%をしめている、などと言うことは資本主義経済を廻すために何ら必要ないばかりか、かえって有害なのですから、そのようないびつな富の偏在は、どんな手法を用いてでも、無くすべきです。ここでは曖昧に「どんな手法を用いてでも」と書きますが、そこは文脈を読み取ってください。つまり私は、このような有害な富の偏在を除くためには、かなり強引な手段を用いても善い、と言っているのです。



これほどの富の偏在、異常な集中は資本主義経済を廻す上でも障害になっているのですから、そういう状況はまさに「どんな手法を用いてでも」是正すべきです。しかしそのことと、「資本主義という経済体制は必ず労働が生み出した富と労働力の再生産に必要な富との差が搾取され、剰余価値となることによって成立する」という原則を理解することは、まったく別なのです。

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