見出し画像

ショートショート 『ウェルビーイング』

 顔色が真っ白だと美由は思った。
 ベッドサイドモニターの心拍数は30-40代を行ったり来たりしている。
 もう少しでこの方はこの世を離れる。
 そんな時にどうして、横にいるのが私なんだろう。

 渡辺さんの点滴があとわずかだ。今ボトルを替えたら、お局に見つからないで済む……!
 Nsステーションにダッシュで戻る美由は、この北呼吸器内科病院に勤めて2年目の看護師だ。髪を束ねなきゃいけないのが面倒で、いつもショートヘア。同僚のヨリに意識が低いとため息をつかれるのも分からなくもない。
 もう少しでNsステーション、というところで、首から掛けている院内ピッチが鳴り足を止める。
 この部屋番号は……くっ……!
 点滴の速度を緩めてきたから10分程度の猶予はある。Nsコールが鳴った部屋へ急いで走る。
「佐藤さんどうなさいましたー?」
「……取って」
 佐藤さんが指を差した先には箱のティッシュが落ちている。
これだけで呼んだのね……。体が動かないから仕方ないけれど。
「はい、どうぞ。こちらに置いておきますね」
 笑顔で渡すと
「……テレビ」
「テレビですね~」
 これじゃ看護師じゃなくてお手伝いさんだなと思いながら、リモコンを探す。なんでそんなところに?と思わずにはいられないほど、ベッドの下の方にリモコンが隠れていた。
「はいどうぞ」
「ん」
 もういいのかな? いいよね? とそろりそろり個室から出ると、
「美由さん、渡辺さんの点滴替えておいたよ、あの人の血管は細くてルート取りにくいんだから注意してよね」
 あなたに替えてとお願いしてないのにー、と思いながら美由は小声で
「すみません」
 といった。

 チューハイとおつまみが入った袋を持ち、同じ寮に住むヨリの部屋に美由は行った。
「お局、私のこと見すぎじゃない?確かに渡辺さんの血管確保なんて無理だけどさ!」
 ヨリは笑いながら皿にお菓子を盛っている。
「確かにね、血管どこですか?ってなるよねw」
 美由はチューハイを選びながら
「その前の佐藤さんからのコールがタイムロスだったなぁ。熱を測るときにティッシュを拾っていれば、お局に嫌味を言われずに済んだのに…」
「佐藤さんって個室の?」
「そう、家族が誰も来ないおじいちゃん、いつもテレビばかりでなんか寂し気だよね」
 チョコを食べながらヨリは
「前に先輩たちが話していたけれど、暴力振るう人だったみたいで、家族はみんな手を焼いていたんだって」
「へぇー……全然そうは見えないね」
 美由が知っている佐藤さんは入院して2か月目で、状態は緩やかに下降している物静かな人だったので、心底意外に思った。
「弟さんがいるみたいだけど、師長が入院の連絡をしたら一切の関わりを拒否したらしいよ。二度と連絡してこないでって言われたんだって」
 私はチューハイを飲む手を止めた。
「そうなんだ……でも佐藤さん癌じゃん。亡くなったらどうするの?」
「火葬場に直行して無縁仏に……納骨って言うのかな?されるらしい」
 ヨリは記憶を引っ張りだすように、左手で頭を支えながら言った。
「無縁仏……」
 私は今日初めて佐藤さんを担当した。発熱の程度や摂取した水分量、痛みのレベルは情報収集していたけれど、知っていたのはそれだけだった。
「家族に囲まれて亡くなる人ばかりじゃないんだね」
「あ!」
 真剣に話をしていたつもりだったが、テレビに映った韓国のイケメン達に一瞬で心を奪われ、その後は2人でギャーギャー踊り、佐藤さんの話をすることはなかった。
 翌日、出勤すると夜勤さんがバタバタしていた。
 何かあったんだと思い、乱雑に置かれた記録類を見る。昨晩、緊急入院した方の状態が思わしくないようだ。
「あ、美由ちゃん!ごめん、朝ごはん配れてないの~」
 夜勤さんが手を合わせつつも、安堵した表情を浮かべる。
「分かりましたー」
 患者さんに食事を配膳する余裕もないなんて、今日の夜勤は相当大変だったんだろうな、と思いながら美由はせっせと配膳した。
 ふと、半開きになった佐藤さんの病室が視界に入った。佐藤さんはごはんを食べられる状態じゃないため配るものはないが、何かが気になり足はすでに病室の方を向いていた。
 異変がなければそれはそれでいいんだし、ちょっと見てみよう……。
「失礼しまーす……」
 美由はすぐに分かった。顔色が昨日とまったく違う。呼吸はかろうじてしているが止まりそうになり喘いでいる。
 夜勤さん、今日はとことんついていないな……!と思いながらNsコールを押し、スタッフを集めた。
 別件で病棟に来ていたDrも様子を見に来て、
「この方は……DNARか。連絡する家族もいないんだね。じゃあ心電図がフラットになったら教えて」
 Drはカルテを見ながら言った。佐藤さんは、心停止や呼吸停止になっても救命措置をしない『DNAR(Do Not Attempt Resuscitation)』を選択していたのだ。
「美由ちゃん気づいてくれてありがとう!」
 夜勤さんが泣きそうな顔をしている。患者さんの死亡後に気づくことは残念ながら珍しいことじゃない。ギリギリでも気付いて対応するのとしないのでは、その後の私たちのメンタルの持ちようが違うのだ。
 経験値の高い先輩達は、状態の悪い患者さんを担当し、佐藤さんを担当できるのは私しかいなかった。
「美由ちゃん看取りしたことあるよね?私もちょくちょく様子を見に行くけど、なるべくそばについててね!」
 リーダーの先輩が慌ただしく指示だけ残し、私の目の前から去っていく。
 まだ2年目なんですけど……私1人で看取りするの……!?
 私の不安は忙しい病棟の喧騒にかき消されてしまった。
 やるしかない、と覚悟を決め、私は佐藤さんの病室へ足早に向かう。

 顔色は先ほどよりも白い。ベッドサイドモニターの数値が辛うじて佐藤さんが生きていることを伝えている。顔をタオルで拭いたり、布団を整えたりし、私は佐藤さんの消えゆく生命を見届けていた。
 佐藤さんの70年の長い人生のクライマックスを見届けるのがなぜ私なんだろう。美由は不思議で仕方なかった。佐藤さんの担当をしたのは昨日が初めて。そんな関係の浅い人間に看取られるのは一体どんな気分なのか……。
 何か伝えたいことはないのか、会いたい人はいなかったのか、あなたの最後はこれでよかったのか。モニター上の心拍数はついに20代から30代へ下降。呼吸は止まりつつある。

 ―――死に様は生き様だ。
 年配のNsが教えてくれた言葉を思い出した。
「死に方にはその人の生き方が表れているね。家族を愛した人は家族に囲まれて、家族を蔑ろにした人は1人で死んでいく。あまりにはっきりと分かってしまうよね」

 佐藤さん、あなたはどうして1人で旅立とうとしているのですか。そばにいるのが私でごめんなさい。あなたの思いをもっと聞いておけばよかった。
 心電図がフラットになった。私は機械的にリーダーとDrに電話をかける。瞳孔確認をするためにDrにペンライトを渡す。手を合わせる。今まで佐藤さんの命をつなぎとめていた点滴のルートをはずす。
 佐藤さんは実に静かにこの世からいなくなった。

 ヨリが翌日の夜勤明けに部屋に来てくれた。
「大丈夫?佐藤さんのこと聞いたよ。大変だったんだってね」
 ヨリがいつもより心配そうに声を掛けている。今、自分がどんな顔をしているのか美由は見当もつかなかった。
「佐藤さんになんて声をかけていいか分からなかったよ」
 不明過ぎて涙も出てこない。
「佐藤さんはどうやって死と向き合っていたのかな。入院時の説明で自分でDNARを決めたんでしょ?普通にすごいよね……」
「不安だったよね……もっと丁寧に関わっていればよかったな……」
 佐藤さんは1人の病室でテレビを見ながら、何を思っていたんだろう。誰も訪ねて来ず、着慣れた服でもなく気に入った寝具でもない殺風景な病室で。
「私だったら家で死にたい」
 2人でコタツに入り、ぼーっとテレビを眺めていた。
「分かる。落ち着く場所にいたいよね。苦しまずに死にたいし」
「家族には介護させたくないから、最期まで歩けないとだめだね」
「そうだね。この仕事してたら、家族に介護させるのはシンドイって思っちゃうよね」
 私たちはぽつぽつと自分の気持ちを話した。佐藤さんは親しい人と思いを分かち合うこともできなかったのだと思うと、胸が痛んだ。
「でもさ、美由が気付いたから、佐藤さんは1人ぼっちで亡くならずに済んだよね」
「それが、何かちょっとでも意味があったらいいな」
 きっと意味なんてないし佐藤さんは死に際、私がそばにいたことに気付かなかったかもしれないと思っていると
「きっと、意味はあったよ」
 ヨリがそっと言ってくれた。私はその言葉を聞いて、初めて自分が佐藤さんの死にショックを受けていたと知った。出勤してすぐ、なんの心の準備もしないまま、たった1人で人の死を受けとめるのは、思っていた以上に美由の心に負担をかけていた。
「はい」
 ヨリが私の方を見ないでティッシュ箱を渡してくれる。派手に鼻をかみながら美由は思った。
 私が佐藤さんにティッシュ箱を渡したとき、この人ならもう一つ用事を頼んでもいいかなと思ってくれたのかな、そうだと嬉しいな。
 知らず知らずのうちにかたまっていた私の心は、ようやく温まるきっかけをもらえたのだった。

 私はNs 3年目に突入していた。まだまだお局には注意されるし、血管確保はへたくそだ。だけれど、一つだけ変わった部分がある。

「この方は普段おうちで何を好まれていましたか?」
 意識のない患者さんのご家族に聞く。ご家族は突然の入院、バタついている病棟の雰囲気、先行きへの不安に常に心を揺さぶられ疲れ切っていた。
「え?この人の好きなもの?えーとね……」
 しばらく考え込み
「あ、スポーツが好きなのよ。野球が特に好きで」
「では、野球の時間にはテレビをつけましょう。ラジオの方が好きですか?」
 ご家族も元気だったころの患者さんへの思いを口にされる。
「昔はね、野球選手になりたかったみたいで、結構うまかったのよ……」
 思い出を共有させていただくと、私の中でもその人が形作られ、カルテから抜け出してくる気がした。
 
 佐藤さん、あなたは何が好きでしたか?
 聞けなかった問いは、今、違う方のために役立たせてもらっていますよ。


よろしければサポートをお願いいたします✨泣いて喜びます!いただいたサポートで質の良い記事作成できるよう精進いたします!