世間という矯正 #22(そのゴミは誰のゴミ)
男は
芸術と向き合う時
世間という矯正を外している。
より強く未来を感じる方へ
伸びたいように伸びていく。
だから
曲がって見えるのだろう。
それは
曲がっている と
評価される。
山に入ると
たくさんの木があり
たくさんの木が曲がっている。
何かに矯正されなくても
思うように
生きるために伸びる。
その姿形がただ美しいと
人の心を打つときもあれば
商品にならないと
見向きもされないときもある。
私は どう伸びたいのか。
人生の半分はすっかり世間というものに矯正されて
良い悪いは分からないが
ある程度真っ直ぐ。
その分
ずいぶん不自然にしか曲がる事ができないようで
曲った先の真実を確信していても
そちらへ向かうのにどっぷり疲れる。
羨望の眼差しが
男に向けられるかと思ったのも束の間
偏屈王 ここに現る。
とでも言いたげな 顔 顔 顔。
世間という矯正を外したから
そのまま自然に曲っただけ。
より強く未来を感じる方へ
伸びて行った結果。
その方がいろいろ
気付かせてくれるのだが。
そんな生き方があるのかと
そんな美しいがあるのかと。
芸術を知ろうとしている私は
曲がって生きたい。
真っ直ぐな心を持って。
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