【娯楽の塵】あとがき
娯楽の塵という命名に意味があったとするなら、ただ「何か」という物に位置づける事で「意味のある物」にしようとした抗いを露呈した点くらいだと思うのです。そして「意味のある事とは何か」と考えがちな、臆病で面白く無い態度が芸術とは恐らく真反対のところに位置するんだろうなと、このゴミを近くに置きながら時折見つかるその真反対な「性格」の確かさにぐうの音も出ないのです。
私も消費者のひとりで、ほんの僅かでもこのゴミから娯楽の一部をわざわざひねり出したのではないかと思うのです。何千とある缶の中から一つ選び、おおよそいつの時代に捨てられたのか可能な限り調べ、その時代に起こった出来事をまた数ある中から一つ選び、自分の思うように書く。その行為は始まりこそ何か意義のある終結を期待しての、娯楽などとは程遠い物だと信じて疑わなかった継続への道だったわけですが、今思うのは人と目の前の芸術を結びつけるだけの、方法として与えるはずの【娯楽】にさえ届いていないということ。
それでも、ある男はまだ続けています。故に私も続けるのです。それが私自身の消費であり娯楽であっても、目指すべきもののために動くしかないのです。尊ぶ事とはどういう事か、認める事とはどういう事か、自覚した自らの消費の矛先を抱えながら進む先にまた何が見えるのか。この時点に於いての私にもたらされた発見が、この目の前に広がる光景を芸術であると証明してほしい。分からない。分からないからこそ探る動機を与えられているのだと、硬くて重い石で出来たトンネルを掘り進む。時に悲鳴をあげそうな手首でも。
食べて、寝て、働いて、そういった生きる行為に芸術が何の関わりがあるのかと人は言うかもしれない。一方、生きる事が芸術そのものだと言う表現者もいるかもしれない。芸術とは果たして立ち位置の違いでそんなにも乖離したものなのでしょうか。私にはどうもこの言葉という方法で表す以上のところで、芸術と人の正しさの繋がりがあって然りだと感じているのです。上手く説明はできません。今はまだ。ただ次のあとがきで近づくことができたらいいなと、今度はそこに期待を持って書いてみようと思います。