Coそだて合宿@松本 余韻
昨日、子どもとの公園遊びまでやって、夜遅めに帰ってきた
まだ余韻
そういえば住んでいた頃も印象に残りながら、寄ってなかったイタリアンレストランに流れでいくことになって、初めて食べたのだけど、本当においしかった!!!
また行かないといけないコース
Coそだて合宿を重ねてみて、進化を感じる
そもそもは、これからの家族のカタチミーティングと題した企画
思いがけずたどりついたのが、共同親権制をなすファミルーの意義を再確認するとともに
打倒オジサン
そういえば、どうして、足踏み遠回り、寄り道しながら、弁護士になろうと浪人を続けていたのだっけ、っていう、忘れかけていた想いが蘇ってきた
これだった(笑)
教育学部の大学で、福祉のことや心理や社会学、ジェンダーなどもつまみ食い的に勉強しつつも、法律を学ぶ中で舐めるように夢中になったのは家族法だった
司法試験の仕組み上、家族法から勉強する、というのは相当にマイナーである
家族法(条文に書いてあることのみならず裁判例や実例に基づいた運用全体含む)を知って、20代前半、絶望を覚え、結婚へのあこがれというものは喪失した
元々なかったのかもしれないが、結婚式なんてのも正直嫌いだ(といっても、これまでせっかく招待していただいた方々をわざわざ呪うものでもないので、祝福してきたよ)
結婚式も婚姻届も、夫婦であることを公証する戸籍だって、ふたりが生涯添い遂げることを約束しない
ただ一緒にいて心地よいと感じているふたりがそこにいる事実があるだけであり、そういう事実を、人は夫婦と呼ぶのかもしれないが、そのとき、結婚式を挙げたか、とか婚姻届を出しているか、とか、戸籍も意味をなさない
家族別姓であっても、よき家族であれば、通りすがりの人だって、カメラのシャッターを押しましょうか、いい家族に見えたから、みたいな声かけをいただいたこともあった
家族という心地よい関係性のコミュニティが誕生して継続すればいい
こういうと、家族=心地よいものとして押し付けるな論争を招きそうである
サードプレイスの重要性なんかが語られるかもしれない
単独親権制下で必要となって生まれたのだろう
それは、家族が付与のものであり普遍であるとする制度の下においてのみ、必要になってしまった
共同親権制
においては、だいぶ家族が変容する
それが恐ろしくて、75年も放置してしまったのかもしれない
家族というのは付与されるものではなく、自分で創造するものになっていく
ひとりで生きるという自由の保障と隣合わせでもある
逃げられないものではなく、解散の自由があるものである
心地よいメンバーだけが集まっていればいい
何の約束もなく、ただ一緒にいたいというそれぞれの思いによって、形成されたそのコミュニティがあるという事実を家族と呼ぶ時代になる
もはや、そこに血縁の有無も問われない
元々、血縁のない他人同士が夫婦となって家族となるのである
ひとりになることを恐れない社会において、心地よくお互いにあるためには合意が必要になっていく
合意のない関係性では、コミュニティが維持できない
サードプレイスと位置づくであろう語り・学びの場なるものが大人向けにもあふれていて、参加する機会も重ねてきたけども、たいていは、グランドルールがあったりする
20代で絶望を覚えると、たとえ長引く浪人生活でも意外に辛くはなかった
浪人生活中オジサンはいなかった
いや、バイトだったり、あれだったり、出くわすことはあったかもしれないが、オジサンに付き合い続けなければならないということはなかった
弁護士になって、同世代・同期の仲間との小さな事務所で仕事をする自由業においては、まったくもって出会うことさえなかったもの
だから、気づくことさえなく鈍っていたかもしれない
それほどまでに、自由業にたどりついたことの価値を再発見する
こうやって、Coそだて合宿は進化する
打倒オジサンの生バトルを身近に味わえるオプション付となる究極の進化を遂げ、まさか、ラスボスがそこにいたなんて、っていうドラマティカルな展開にワクワクが止まらない
さっそく次の企画に向けて、夢膨らむのである
しょっちゅう合宿はできないので、ぜひ、Coそミィへ!!
ファミリールールコンテンツも充実させていこうと決意する
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