解説編⑩ 平等原則 手段が目的との合理的関連性がない


国の責任を研究することで見えることが多い。

養育権について、非婚を差別しているが、その目的の正当性も見いだせないことがわかった。仮に正当だと言い逃れたとしよう。しかし、手段との合理的関連性もないのだ。


(3) 次の手段としても、非婚の父母の養育権を侵害し又はこれを区別することは合理的な関連性のない手段である。

 養育権の衝突は、婚姻中、婚姻外にかかわらず発生することであり、だからこそ、父母の婚姻中であるか否かに関わらず、養育権を適切に調整すべきことが要請されるのである。養育権調整の必要性を父母の婚姻関係に紐づける必要はまったくない。父母間で意見の対立があれば子の監護に関する事項について、司法による一定の介入を検討すべきであって、また、一方又は双方の養育権の行使に養育権の逸脱ともいえる問題があれば、この時に初めて養育権自体を制約すればよい。現行法にも親権喪失の審判(民法834条)・親権停止の審判(民法834条の2)が存在する。

 養育権の衝突の回避の必要が肯定されたとして、なぜ、父母の婚姻関係と紐づけるのか。それで解決するのか。養育権の行使そのものが不適切であれば、すでに、その制約手段が用意されいるのであるから、婚姻中か否かを問わず積極的に活用することが、虐待抑止にも貢献するのではないだろうか。

単独親権にするために、離婚を勧める現行の運用こそ、不合理であり、離婚するには、諸々の条件が重くのしかかるため、結果、かえって虐待環境を隠蔽孤立化するものと考えられる。親権喪失・停止もハードルが低いわけではないが(それだけ、親子関係への配慮ともいえる。少なくとも、裁判所の手続きを要する点で手続保障を満たす。)、離婚(養育費や面会交流といった親子関係に関する条件以外にも、財産分与・慰謝料・年金分割の協議が必要な場合が含まれる)が破綻主義が完成していないことと相まって、一層高いハードルになることもある。離婚後の経済的自立の不安もまた、離婚を躊躇させるので、不適切な婚姻関係であっても受容する構造がある。日本の婚姻制度そのものがDVかもしれない点は、別の機会を用意したい。

研究に戻ろう。あの判例の検証が盛り込まれる。

 また、本件でいう非婚には事実婚も含まれる。そもそも、婚姻と親子関係を紐づけること自体、合理性を欠くことは前記のとおりであるが、たとえこの点を置くとしても、事実婚を婚姻の形として一定程度尊重していながら、養育権について侵害、差別することは整合性を欠く。
 別の観点から、法律婚を選択しない事実婚や非婚に関しては、夫婦別姓訴訟といわれる平成27年12月16日最高裁判所大法廷(平成26年(オ)第1023号)も参考になる。同判決は、氏の決定や変更は自らの意思のみで行うことは認められるものではないとの趣旨を述べながらも、「本件で問題となっているのは、婚姻という身分関係の変動を自らの意思で選択することに伴って夫婦の一方が氏を改めるという場面であって、自らの意思に関わりなく氏を改めることが強制されるというものではない。」として氏の変更が生ずる身分関係の変動自体は自らの意思で選択できるものであることに言及している。この論理は、法律婚の選択は自らの意思であることが前提となっている。しかし、法律婚でなければ一方の親が親権を得られない現行の単独親権制のもとで、本当に法律婚が自らの意思で選択できるだろうか。親子の地位と結びつけられていたら、親権者となるためにやむなく法律婚を選択せざるをえない者も当然生じる。法的な婚姻自体が自らの選択事項というのであれば、法的な婚姻と親権・養育権を結び付けることは不合理であることになる。

  夫婦別姓制度を用意していない、現行の夫婦同氏原則は合憲であると判断されている。その前提として、改姓を伴う法律婚の選択は、当事者の意思によるから強制されていないというのだ。最近は、手厚く婚姻契約を公正証書化し(実際分厚い書面になることもある)、法律婚を選択しないことで、夫婦別姓生活を実現する例もあるという。勉強会に参加して、実践例にも触れるが、日々の日常の中で、夫婦であること、家族であることの違和感はないという。ただ、わが子との親子関係において、親子であることは間違いないが、単独親権であることは心配している、という声も実際聞いた。共同親権を選べないのに、法律婚の選択は自由なのか?やむを得ず法律婚を選択する場合、改姓も伴うとなると、やはり、それは、強制の要素を含むという分析は妥当であろう。

 嫡出子モデルを標準とする家族像が無理を来たしているものと想像する。

 もうひとつの判例にも言及する。

 さらに、相続分についての嫡出子と非嫡出子の区別が差別にあたるか否かが判断された平成25年9月4日大法廷決定(平成24年(ク)第984号,第985号)も「そして,法律婚という制度自体は我が国に定着しているとしても,上記のような認識の変化に伴い,上記制度の下で父母が婚姻関係になかったという,子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず,子を個人として尊重し,その権利を保障すべきであるという考えが確立されてきているものということができる。」としている。この考え方も本件との類似性が高い。上記判例では触れられいないが、そもそも父母にとっても法的な婚姻をするかどうかは一方の意思だけでは決められないものである。ましてや、子が父母の婚姻について、子が選択又は修正する余地のない事柄であることは判例のとおりである。そうであれば、単に父母が婚姻しているかどうかという子にとってまったく選択の余地のない事柄で、(具体的事情に基づかず)一律に親権・養育権を左右することは不合理である。

 単独親権によって、子の利益に影響がないとは言えないだろう。共同親権であれば、父母の協議による慎重に検討されるべき、代諾養子縁組や、子の氏の変更が、単独親権者の独断で実現してしまうのである。代諾養子縁組については、裁判所の許可すらパスする場合もある(再婚後の配偶者と連れ子を養子にする場合)。子の氏の変更は裁判所の許可によるものではあるが、同居の実態があれば、概ね即日許可の判断がされていく。幼いながらにコミュニティの中で、アイデンティティを形成しているであろう子どもたちにとって、改姓への配慮が尽くされているかは不明である。これは別途最高裁まで争ったことが実はあるが(最高裁では門前払い)、高裁においてすら、子の氏の改姓については、成年者の改姓とは同じではないこと、成人時に氏を選択できる制度によってフォローされていること(しかし、普通の人は知らないのでは?)といって問題にしなかった。ある日を境に、生来の氏を変えて暮らすことになる子どもたちの心が傷ついていないばかりではないだろう。

 単独親権者が配慮する場合もある(子の氏は変えない、そのために、婚氏続称することもある)にしても、全く約束されていない。その子自身にとって、どうすることもできないことで、その子の暮らしにも影響が起きてしまっているのである。

 最後に、手段が生む実際の効果として、親の一方の親権を制約することは、衝突の回避どころか、大きな衝突を生む側面があることは明白である。親同士は法律婚をしていない限り、常に親権の択一的な緊張関係を強いられるのである。非婚の父母や、離婚を希望する父母が、親権を奪い合うことが起こっていることは公知の事実である。前述の子の連れ去り問題は、極めて子にとって影響の大きい形での衝突のあらわれであるが、子の連れ去りは親権の奪い合いの代表的な形である。親の意見の衝突回避という目的に逆行する面を強く持つ手段をあえて選択する必要はなく、この点も手段の不合理性を明白にあらわしている。

 単独親権制が、子の連れ去りを引き起こす面についても指摘する。連れ去りが起これば、葛藤を高めていくだろう。避難といえる状況であればともかく、夫婦の不和の問題がある中で、連れ去りが起きたとき、常に正当化されるとも限らない。ときに、不和の火種をもたらした側が連れ去る場合もありうるが、それでも、継続性の原則により、連れ去りが不問になることが放置されてきた。それゆえ、日本は、連れ去り天国との批判もあるのである。

 父母の衝突を回避する目的で、単独親権制を維持し、かえって、衝突を引き起こし、結果、子どもへの影響は甚大である。日本の子どもの自己肯定感が低いという指摘も珍しくない。不登校、自殺、いずれも、関連する問題状況だろう。それだけ、子どもの権利(子どもは、親あっての存在であるから、親子の権利でもある)を大切にしてこなかった代償が明白である。

 手段の合理的関連性を説明することすら、もはや無理であることが明白であるが、反論を待ちたい。

 (4) 以上の通り、現行法である民法818条3項の「父母の婚姻中は、」の規定は、養育権・親権差別であり、また、同規定及びその他養育権保障の保障の規定がないことは、その立法内容が養育権の侵害にあたるところ、各侵害は、明らかに目的の合理性を欠き、かつ、目的との合理的関連性を有しない。したがって、これを是正しない立法府には立法の不作為が存在する


立法不作為の責任があるよ、ということである。

以上が、憲法違反の指摘である。

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