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1人酒場飯ーその9「高層マンションの谷間、孤独のジンギスカン」

 先日、小田急線の豪徳寺駅に寄ったついでに学生時代を過ごした川崎登戸の地に久々に足を延ばした。

 登戸から大学のキャンバスの最寄り駅だった向ケ丘遊園駅の短い間隔をゆっくりと歩いてみたがあっという間に6年近い歳月が経つと見知った景色が移り変わっていった様が手に取るように分かった。


 人にとって見れば記憶に残っている景色も街にとってみればあっという間に忘れられていくのだ。

 昔通ったラーメン屋は場所を変え、部の歓迎会を行った喫茶店だけは残り周囲の店は見知らぬ店名に変わっていた。

 なんともノスタルジックとか、レガシーはないんだよ、と僕に語り掛けるように思い出は過ぎ去っていくのだな、と思った。その折夕食を勤しんだ後だというのに昔通ったラーメン屋で一杯味わったのだがすっかり味を遠くに感じてしまった、ぼんやりとこんな感じだっけと。


 時間が経ったのは街だけじゃなくて自分もだったのだ、と改めて思い知らされた気がした。それはそうだ、誰もが頭に強烈に残った何かだけはメモリーに擦りついていく、そしてちょっとピントがすれてしまった事は忘れてしまっていくから。


 その翌日、あるお店を訪れるために僕は武蔵小杉の駅に降りた。超高層マンションと商業施設の群れは数年前に行った時よりも深くなり、鉄骨の森へと姿を変えていた。何というか雰囲気も、人の流れも、印象もすっかり変わってしまったようだ。高い構造物という名の木の下、コンクリートの地面を流れていく人の群れ、見上げても空を遮る灯り。気分はまるでミニチュアの世界に閉じ込められた気分だ。

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 巨大な商業施設『グランツリー』の案内板に誘われてどんなテナントが入っているのかを見る。ファッションだってあるし、食品売り場もある、本屋もある。通信機器の各会社の支店も入っている。飲食店だって高級向けからファミリー向けの幅広い客層向けの店が揃っている。笑ってしまう、全て完結しているじゃないか。少し時間があるので見て回ってみると建物一つあれば商店街なんて必要なくなるよな、商店街の何が飛び出すか分からないところが好きな僕としては悲しく思えてしまう部分もあるし、人の生活が良くなっている事にも賛同できる部分もある。ほんと便利って罪作り。


 時間は早夕方5時半。そろそろ目的の時間だ。武蔵小杉の人波を越えて南口にあるある小路に向かう。その一角だけ昭和を漂わせる『センターロード小杉』。個人経営の店とチェーン店が仲良く肩を並べる不思議な空間だ。

 歩けばサラリーマンや学生達が昭和の中に馴染んでしまっており、ここだけ別な世界なんだなと思わせてくれる一角。通りでは禁煙が叫ばれる世の中から離れたように喫煙できるエリアがあり、煙草の煙が漂う。

 呑兵衛横町をさっさと歩き気になる店を覗く、そうだこれがノスタルジックなのだ。ようやくこの街で出会った空気に重いが過る、そして足は赤提灯からセンターロードの外れにある緑の暖簾に移る。

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 ここが目的地だ。評判と僕にとって趣味とも言える『孤独のグルメ』の撮影の噂を聞いて予約を入れてまでやって来た、それだけのためにここにやって来た。
緑の暖簾には堂々とした『ジンギスカン』の6文字。小さく控えめに右下にお店の名前『どぅー』と入っている。小さい店構えながら暖簾から漂う凄み。僕が目指したのはこの店、『ジンギスカンどぅー』。ジンギスカンという6文字には何とも言えない魅力がある。


 緑の暖簾をくぐって店内を覗くと小さな店内にはテーブル席と1人ジンギスカンのためのL字カウンター。その中心では女将さんがお酒を準備し、奥では旦那さんがラムの塊を切り分けている。

 各テーブルから煙が漂い、切り取られた世界がそこにはあった。

 ホールを担当している店員さんに案内され、厨房と奥の仕込みスペースが見える特等席の一人カウンターへと誘われた僕は渡されたメニューをしっかりと吟味する。羊のイラストに「ジンギスカンどぅー」のおいしい食べ方の案内が楽しげに心を擽る。まず第一段階は網焼きの『チャックロール』なる物が手順らしい。

 チャックロール、聞いたことがないが極上のラムの肩ロースの事らしい。しかもレアで食べられるとか聞いたことがない。


 「チャックロール」なんとも響きがいいじゃないですか、ロックンロールみたいで。

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 焼く前にメニューで気になった「ラムのたたき」を先に出してもらう。たたきのため、冷やされているがラムの肉質の柔らかさを感じる噛み応え。この一皿だけでも美味いのにこれより上のチャックロールとは一体。


 たたきと珍しくレモンサワーを合わせて堪能した僕の元に七輪が運ばれてくる。一人だけの七輪、一人のための七輪。もうこの七輪は好き勝手できる僕の領土だ。しかし、ジンギスカンで炭火焼は聞いたことがない。そこへ銀の皿に乗ったチャックロールがやって来た。

 羊肉といえば固いイメージなのだがチャックロールは全く違う。程よい赤身に絶妙に入ったサシの対比が絵画に描いたように美しいのだ。それにチャックロールのためだけに選ばれた能登半島の珠洲塩ともう一つのオプションとして注文できるネギ塩スタイル。もうたまらないじゃないか。さっと焼いて大丈夫です、という説明も上の空になるくらいだ。

網へと、炭の直へと肉を乗せる。赤身は熱が通っていくが赤さが残る加減が難しい。

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 「このくらいですか?」思わず聞いてしまうが、女将さんが頃合いですよと助け舟を出してくれる。感謝だ、感謝。早速珠洲塩につけて口へと。まず驚かされる柔らかさ、しっかりとした肉質なのに噛み切れてしまう柔らかさ。噛むと旨味の塊と脂の甘味が押し寄せるように舌にぶつかってくる。

 まさに純粋無垢な濁りのない羊の美味さ、これほど記憶に残る物は久々に食べた。思わず「ハハハ」と小さく笑ってしまうぐらいだ。気づいてみればチャックロールを4皿食べていた、いや恐ろしい美味さだ。


チャックロールを終えた頃合いでホールの店員さんがジンギスカンに切り替えますか?と聞いてきた気がするが上滑りしていたようにはいと口が動いた。これから仕切り直しのセカンドラウンド。正式なジンギスカンとのご対面だ。


 まずは店員さんに手順を踏んで野菜を鉄鍋にセットしてもらう。もやし、にんじん、玉ねぎ、脇役だがジンギスカンには欠かせない役者たちが音を立てて炭で熱された鉄鍋で歓声を上げていく。

そして3種の部位のセットの肉を鉄板へ。煙は美味しさの証明。

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 3種セットどの部位も個性的だ。柔らかさ、旨味、三様の変化。そしてつけダレが羊を活かす絶妙な酸味と甘味のバランス。野菜も盛り立てる。どの顔も美味い、羊の可能性に驚かされるばかりだ。

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 さらに珍しい羊肉のソーセージでパリッとした歯触りと羊の脂を楽しみ、羊の骨付きハムの燻製された旨味と奥底の肉の味を知ってしまえば最早心は羊を数えてしまう。ああ、楽しい時間だ。自然と帰る時に「美味しかったです」が出てしまう。


 高揚感と煙に包まれた衣服からジンギスカンの臭いを漂わせながら鉄骨の森を後にした。きっとあの一角がある限り心はあの居心地の良い路地に帰っていくのだろうなぁ。


今回のお店

ジンギスカンどぅー

住所 神奈川県川崎市中原区小杉町3-430 伊藤ビル1F

お問い合わせ番号 044-733-2730

定休日 月曜、不定休(お問い合わせしてご確認ください)

営業時間 火〜金 17時〜22時 土曜、日曜 16時〜22時



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