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「いただきます」

イタリアに住み始めて7年が経ち、今では日常的感覚の大半はイタリアの感覚で占められている。

そうすると食前後に「合掌」をすることがなくなる。
要するに「いただきます」と「ごちそうさま」をしなくなるのだ。

食卓にはテーブルクロスがかけられてフォークとナイフ、スプーンが並べられ、ナプキンが置かれる。

掛け声は「召し上がれ!」(直訳すると「良い食事を!」)だ。

先日彼女の大好物である親子丼を作った。
その前は日本人先輩の家で晩御飯をご馳走になった。
両方とも食卓にはお箸があった。
そしてどちらともお箸を取る前に必ず手を合わせ、食べ終わると無意識に手を合わせていた。そして同時に「何に手を合わせ、感謝しているのか?」を反射的に
考え、合掌を心からしていたのだ。

根は日本人なのだが感覚が違う為、咄嗟に出る所作に対し「なぜ今これをしているのか?」という事を自問自答してしまうのだ。

そのためフォークとナイフだと不思議と手が合わない。食べる前も食べた後も無意識に合掌は出ないのだ。
日本人としてたったそれだけで手を合わせる合わせないを決めているのは恥ずかしいともしかすると思われてしまうかもしれないのだが僕が手を合わせるか合わせないかを決めているのではないのだ。
箸が見えると反射的に手が合わさるのだ。
これは素晴らしい文化の元で自分は生まれ育ったんだと感じさせてくれるものなのだ。
目の前の食材に対して「喜び」や「楽しみ」を表現するのがイタリア。
反対に目の前の食材に対し、その過程への「感謝」や「尊さ」を表現するのが日本。
その表現が合掌なのだ。
合掌は先人が築き上げた立派な儀式なのだ。

この例からだけでもわかるように物事の過程に対して感謝をするのが日本人の特徴だ。
なぜ、お辞儀をするのか?なぜ敬語を使うのか?
それらには全て背景があり、常に相手を敬う気持ちを忘れない日本独自の文化がある。
そしてこの文化は仏教と深く結びつくものだと僕は考える。
それを今ここで掘り下げるつもりはない。

ただ、日本では学校で宗教の事をほとんど勉強しないと言われているが実は日常の何気ない作法を深掘っていくとそんなことが簡単に見えてくるのかもしれない。


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