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顕神の夢 ー幻視の表現者ー:2 /川崎市岡本太郎美術館

承前

 最初のセクションでは、出口なお《お筆先》、出口王仁三郎の書画・陶芸をはじめとした、宗教者による作品が展示されていた。
 いずれも制作そのものを生活の糧とはしていないが、みずからが観じたものを視覚化する一手段として、絵画などによる表現を用いた。

 この章ではないものの、展示の後半に出てくる佐藤溪も、大本教とは関係が深い。
 大作《大天主太神(おおもとすめおおみかみ)とニ天使》(聴潮閣)。教義を具現化した曼荼羅のような絵と思われ、見る人が見れば、描かれた世界を容易に読み解くことが可能なのだろう。

 大本教以外の、宗教色が濃い作品もある。
 仏画の観音像とキリスト教のイコンの聖母像とを混交させた牧島如鳩《魚籃観音像》(1952年  公益財団法人足利市民文化財団)は、まことに忘れがたい作。

 福島の小名浜港に舞い降りる、観音さま。この地の漁師たちのために描かれ、組合長室の壁を長く飾った。
 宗教の境がない聖性を帯びた象徴的図像を、港町とその生業を護る存在として如鳩は描きだしたのだった。

 このように、本展のキーワードたる「幻視」が「宗教」「信仰」といったものと密接に関連しているのは確かで、じっさいに宗教美術、信仰の産物と呼べる出品作も少なくはないのだが、展示全体からみれば一部にすぎない。
 本展は、いわば宗教以前の、神秘的な体験のほうに照準を定めているのだ。
 なにかへの崇敬、畏怖。なにかからの啓示とインスピレーション。それを機に、内向きに広がり、沈潜していく世界……こういった様態は、宗教に限らず、創作の過程においてもみられる。
 本展には、その傾向が強い作品が集められ、作家の言葉やエピソードとともに作家単位で紹介されていく。

  「畏怖」という部分で、とりわけ気になった作品が橋本平八《石に就いて》(1928年)。
 ある自然石に対し、決定的ともいえる霊性・聖性を認めた作者は、その石を木彫によって忠実に写した。

 作品のかたわらには、その石が置いてあった。「たしかにこれは……」と思えてくるほど、立派な石ではない。というか、石と木彫は瓜二つ。比べれば比べるほど、よい出来だとわかった(サイズは、木彫が1.5倍)。
 石には小さく「南無阿弥陀仏」と墨書されている。作者はこの石に、結跏趺坐する阿弥陀如来の姿を見たのだ。
 それならば如来の姿に、仏像らしく彫り出せばよかったのでは……と思ってしまうところだがーーおそらく、それでは駄目だったのだ。
 洒脱な見立ての遊びではなく、作者は「本気」だった。作者にとって、この石としての姿こそがみほとけの顕現するもの、もとい、みほとけ「そのもの」だったのであろう。だから、そっくりそのまま写した。
 みずから手を動かし、かたちや痕をなぞることで、畏怖を超えて、石の霊性や聖性に肉薄したい……そのようなねらいも、きっとあったのではと思われる。(つづく

湧水の池の水面。美術館に行く前、狛江にて

 ※佐藤溪は、洲之内徹『さらば気まぐれ美術館』にも2度登場。本作についても触れられている。


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