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深川小津さんぽ :2

承前

 小津家の跡に母校の小学校、菩提寺。
 これらはみな、富岡八幡宮の北西に集中している。
 小津の展示コーナーがある古石場文化センターは八幡宮の南で、小津の生まれ育ったあたりとは少し離れている。地下鉄東西線の門前仲町駅からは、どちらも歩いて10分ほどだ。
 門前仲町駅の次は木場という駅だが、駅や木場公園の南側を含む川で挟まれた範囲が、幕府公認の材木の集積地だった。
 小津家近くの仙台堀川沿いには、材木の商いで富を築いた紀伊國屋(文左衛門)や冬木屋があったとされる。

 海や川、さらには町にも近いだけに、木材のみならず、石材の集積地ともなっていた。「古石場」の地名の由来である。
 富岡八幡宮から古石場文化センターまでのあいだに、2本の橋を渡った。うち1本は橋の下が親水公園に改造されており、橋の名を「小津橋」という。肥料問屋「湯浅屋」を営んでいた小津本家によって架けられた橋だ。安二郎の生まれた分家は、湯浅屋の番頭を代々務めた。

なんの変哲もない橋。この位置からカメラを構える人は十中八九、小津ファンだろう

 小津橋を渡るとまもなく、江東区古石場文化センターに到着。
 その名のとおり、貸し会議室などを備えた公共施設で、図書館も併設されている。小津作品にかぎらず、新旧交えた映画の上映会が定期的に開催されているとのこと。

左側が、入場無料の小津コーナー。上層階は都営住宅になっている

 コンパクトな展示室にパーテーションが組まれ、資料とパネルで小津の人と作品が紹介されていた。
 最初の展示ケースには、へその緒とうぶ毛、戸籍謄本が。ほかにも小学校時代のお習字や図画など、ごく個人的な資料が目立つ。
 監督になってからのものとしては、脚本に朱を入れた赤鉛筆、着物、絵入りの葉書、愛用の箪笥、横浜の展示で観た椿の湯呑も。

 壁には、多感な時期を過ごした三重・松阪、仕事場となった茅ヶ崎館や蓼科の無藝荘といったゆかりの地の写真パネルが飾られていた。
 ここで、無藝荘に寄贈されたという、小津家伝来の石仏の存在を初めて知った。見たところ、中世はありそうだ。京都の大徳寺大仙院から譲り受けたとのこと。

 上の記事によると、清水宏から引越し祝いにもらった「奈良漬のつぼ」なるものが同時に寄贈されたというが……これに関しては、下記リンクが見つかった。室町期の古備前大甕であった。


 展示室のモニターでは、江東区ゆかりの小津作品を紹介。「喜八もの」に描かれる底辺の庶民たちは、深川にいた人びとをモデルにしている——そう語る小津の肉声が、室内に響く。
 映像では、江東区内が舞台・ロケ地となっている作品について触れられていたけれど、劇中で目立つのは砂町の東京ガスの球状タンク、枝川の塵芥処理工場の煙突くらいで、どちらもいまはない。
 ただ、このタンクと煙突は、単なる背景の一部というよりもさらに象徴的なモチーフとして、繰り返し登場する。

 タンクから思い出されるのは、長谷川利行《タンク街道》(昭和5年  個人蔵)、それに藤牧義夫《隅田川両岸画巻  白鬚の巻》(昭和9年  東京都現代美術館)の冒頭である。

 『東京の宿』の公開は昭和10年で、いずれも制作年代は近い。
 小津が映したタンクは砂町、利行と義夫が描いたタンクは千住で別物ではあるけれど、タンクという物体が、彼らの目に魅力的なモチーフとして映った事実が興味深い。
 がらーんとした東京のはずれに忽然と現れた、異形の巨大構造物。
 現在のように周囲にビルなどないから、初めて目にしたときのインパクトは、やはり強かったのであろう。
 それを、小津は荒れ地や下町の風景と対比させるように映し、利行は暴力的なほどの熱情をもって大きく描きだし、義夫は怜悧な筆で淡々と遠景として描いたのだった。

白鬚橋の東向島側から、隅田川と南千住の街を望む。後継のタンクが現役で稼働中


 ——砂町のタンク跡(なにもない)を含む、江東区内の小津ゆかりの地をめぐるスタンプラリーが開催中。わたしは参加しないままいくつかまわったが、記念品を確認したら、欲しくなってきた。
 近場でもある。一丁、やってみようかしら……古石場への再訪は、思いのほかすぐに実現されそうだ。



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