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生誕110年記念 松本竣介デッサン50:2 /大川美術館

承前

 本展の主役は、竣介の「デッサン」である。

 従来的というか、いまだに一般的な見方からすれば……スケッチやデッサンといったものは、タブロー(ここでは油彩)に至る準備段階の産物として、一段下にみられがちである。
 また、これも一般論として、色つきの絵のほうが市場価値は高い。同じ作家の同じような絵ならば、単色よりも多色が評価を受けやすいのは世の常。売り値には、如何ともしがたい差が表れる。

 けれども、デッサンでしか味わえない、デッサンなりの魅力というのも、確かにあるものだ。
 いきなりの変なたとえで恐縮だが、やきものでいえば、本焼きをする前の素焼きの状態や、それ以前の生乾きで乾燥中のすがたなど、たいへん美しい。窯場を見学して、そう感じた経験のある方は多いのではないだろうか。
 なぜ、美しいのか。
 表面に施される釉薬や文様がまだなく、フォルムそのもののよさであったり、轆轤挽きや口づくりにみられる手先の動きのニュアンスが引き立つからである。
 かたちがすぐれていれば、それだけで「魅せる」ことができる。
 絵画における「線」も、また同じであろう。

 竣介は油彩画において、丹念に画面を構築し、塗りこめていく。
 そのなかでも、線は常にレイヤーの最前面にあって、背後に控える色の深淵に埋没することなく、なお敢然と立ちつづけている。
 油彩の大作《街》(大川美術館)を小さな図版でみると、茫洋・茫漠とした絵という感想をもたれるかもしれない。

 じっさいの竣介の線は、じつに強い。
 とくに、太く引かれた主線は確信に満ちている。実物と画像とで、大きく印象が異なる典型であろう。
 下のリンク先に拡大図が出ているが、このようなごく些細な描写にすら、これほどはっきりとした線が駆使されている。

 線に弱さがあれば、画面全体がふにゃふにゃで、霧のようになにも残らず、消えてしまうはずだ。そんな気配はつゆもない。線が、骨格をなしている。
 竣介は「線の画家」であり、それを支えているのは、ほかならぬデッサンだ……会場をまわっていると、そういったことが、実感をもって伝わってきたのだった。

 ——と同時に、な竣介のデッサンからは、混じりっけなしの「生(き)」の魅力だけでは説明がつかないような完成度の高さを感じさせた。
 竣介自身の言葉を借りるのが、いちばん早いだろう。本展のリーフレットに、以下のフレーズが引用されていた。

只の線は一切のものを現はすものだ

 また、図録にあった次の一節も象徴的である。

元来素描とはDessinであり英語のDesignの事であつて、計画であり、決意決心を意味してゐるのである

「でつさん 素描」より

 ここで述べられているのは「たかが線、もとい線こそすべてだ」という確信であり、その線が主体となるデッサンとは、けっして無計画で気軽なものではなく、真剣勝負そのものであったということだ。峻介にとってのデッサンは、そういうものだった。

 かといって、本展で「デッサン」の名のもとに括られた50の作品は、一様に同じ性格を示すものでもない。
 技法でいえば鉛筆、木炭、コンテ、インク、そして墨が挙げられ、それらの組み合わせによって線に隈どりをしたもの、水彩で薄く着彩したものも含まれる。「線画」と単純にいってよさそうな、インクで簡潔な線を走らせたものから、面に濃淡がつけられた丁寧な仕上げとなっている作までがある。

 スケッチ帳やデッサンが、油彩の全体ないし一部に活用されている実例も、いくつか展示されていた。「カルトン」と呼ばれるキャンバス転写用のハトロン紙などは、本画に至る制作過程を直截的に示すものである。
 このなかには、竣介本人にいわせれば「デッサン」にあたらないものも、今回の50点には含まれているのだろう。

 そういった点を考慮に入れてもなお、出品作品のどれもがこのふたつの引用箇所を肯定し、具現化しているものと感じられる。
 いま、図録のページをめくって、作品の図版が出てくるごとに峻介の言葉を反芻しているが、深くうなづいてしまうばかりである。
 絵のなかに線という確固とした骨格があるように、デッサンを描く竣介のなかに上記のような思考がある。そしてそれは、個々のデッサンに込められている……このように捉えてみると、じつに腑に落ちるものがある。(つづく

織物業で栄えた桐生には、その隆盛ぶりを示す戦前の建物が多く残っている。写真は駅前の大谷石の蔵で、現在は歯医者さん



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