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市川から市原へ 古代に国府があった街:2

承前

 住宅街のすきまから、あざやかな朱色がのぞいた。
 上総国の国分尼寺は国分寺とは違い、すでに絶えて久しく、遺構の真上に建造物が原寸で再現されている。
 門だけでなく、回廊が連結して長方形の伽藍を形成。この手の再現では、頑張って門ひとつ……といったケースが多いように思われ、それでもじゅうぶんにすごいのであるが、回廊がつながると、こんなにも壮麗なのか。

 ※市川の下総国分寺は「門ひとつ」のケースにあたる。行政主導の史跡整備の一環ではなく、現在の下総国分寺がお寺の門として建てたもので、4分の1縮小サイズ、位置も異なっている。ただこの界隈では、天平期を偲ばせる貴重な存在(下の写真)。

 改めて「市原、すごいな……」と圧倒されながら、朱の回廊のまわりを、気づいたらずいぶん長いこと歩いている。
 夜間に人が立ち入らないように柵がめぐらされているのだが、肝心の入り口が見当たらないのだ。
 どうやら北側の1か所に限られているらしいと知り、少し道を戻った。「入り口はこちら→」といった看板があるといいなと思った。

 唯一の入り口の脇には「史跡上総国分尼寺跡展示館」が設けられ、国分寺・国分尼寺に関する解説、建物の再現過程の紹介、陶器・古瓦など考古遺物の展示がおこなわれていた。
 奈良三彩の小壺に緑釉陶器、猿投と、かなりいいものが出ている。金属器では、法隆寺献納宝物にあるような砂張水瓶の蓋や鋺(かなまり)の残欠も。さすが官立寺院である。
 この界隈からの出土品の白眉であり、スーパースターといってよいのが猿投の《灰釉花文浄瓶》(写真中央)。一瞬ドキッとしたが、展示品はレプリカであった。

レプリカゆえ、テグスがかかっていない。左右の水瓶と華瓶も美しいフォルムだ(撮影可能)

 実物は、もとはこの館のこの位置に展示されていたものの、市原歴史博物館の開館を機に移されたらしい。ご対面は、しばしお預け。
 同じく猿投の短頸壺もよい。たっぷりと、すだれ状に流れる釉が見事で、眼福。


 ——展示館での予習を終え、フィールドへと繰り出した。

 聖武天皇が各国につくらせた国分尼寺のなかで、最も大規模な遺構が確認されているのが、上総国分尼寺だという。
 その中心へと向かう中門の扉は閉ざされ、くぐることはできなかった。
 回廊をぐるりと回って内側に入り、門の向こう側に見える景色を撮影。

 左右の回廊が途切れた正面の空白には、本尊を祀る金堂が立っていた。基壇・礎石のみが、再現されている。
 建物がなにひとつないことによって、金堂の存在感は、かえって増幅しているようにも思われた。

金堂基壇の上から撮影。右は、国分寺七重塔より若干低い市原市役所庁舎
回廊内部。陶製の敷きタイル「塼(せん)」もしっかり再現されていて、踏み心地がよい

 回廊をそぞろ歩いていると、気分はさながら天平人……というよりは、むしょうに奈良に行きたくなってきた。
 国分尼寺の元締めである「総国分尼寺」は、奈良の法華寺。各国の国分尼寺は、いわば法華寺の分身といえよう。さらに、下総国分尼寺の規模は法華寺に匹敵するともいわれ、伽藍配置も近い。
 そうなると、奈良が思い出されたのは、むしろ自然とも思われる。現在の法華寺にこんな回廊はないけれど、土地の記憶というのは、あなどりがたいものである。

 ——国分尼寺から市原歴史博物館まで、徒歩22分。
 そのちょうど中間、11分の地点にある稲荷台1号墳の跡にも寄ってみた。「王賜」銘入りの鉄剣(市指定文化財)が出土したことで知られる古墳だ。

 プリンに似てかわいらしい……と思いきや、墳丘は発掘調査の完了後、すでに破壊されており、3分の1スケールで再現したのがこの姿とのこと。

 さらに11分で、最終目的地・市原歴史博物館へ到着した。次回はその展示内容について、書いていくとしたい。



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