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小津安二郎の審美眼-OZU ART-:1 /茅ヶ崎市美術館

 小津安二郎、生誕120年・没後60年。
 その当日であり、小津の誕生日にして命日でもある12月12日が近づくにつれて、イベントの開催告知が続いている。先日は、Bunkamura ル・シネマ 渋谷宮下での特集上映が発表された。

 美術館などの展示企画も、今年は何本か催された。
 最も大規模だったのが、今春の横浜・神奈川近代文学館「生誕120年 没後60年  小津安二郎展」。訪問記を以前、当ページに綴っている(この記事末尾に初回のリンクを掲載)。
 それとはまったく別系統の企画が、つい先日9日に閉幕した茅ヶ崎市美術館「生誕120年 没後60年  小津安二郎の審美眼-OZU ART-」である。

本展リーフレット

 新年度、茅ヶ崎市美の年間スケジュールが出た段階での展覧会名は「生誕120年 没後60年  小津安二郎展(仮)」。つまり横浜の展示と同一の名称で、「もしかして巡回なのか?」とも思われたのだった。横浜から茅ヶ崎への巡回なんて考えにくいけれど、ありえなくはない。
 その後、「小津安二郎の美術考撰(仮)」(たしかそんな感じ)を経てこの正式名称がアップされると、どうやら別企画で、同時に個人的に待望していた内容でもあり、必見と思われることが判明したのだった。

 そもそもなぜ、サザンのお膝元・湘南は茅ヶ崎で小津なのか。茅ヶ崎と小津に、どのようなゆかりがあるのか。その点に、まずは触れておかねばなるまい。
 市内の旅館・茅ヶ崎館が小津の定宿であり、仕事場がわりとなっていたのである。
 小津は「二番」の客間に缶詰となり、脚本家と喧々諤々やりあった。松竹の関係者も、さかんに出入りした。多いときで、年間の3分の1ほどを茅ヶ崎で過ごしたともいう。
 こうして『父ありき』(1942年)から『早春』(1956年)まで、『晩春』(1949年)『麥秋』(1951年)『東京物語』(1953年)の「紀子三部作」を含む9作品の構想が、茅ヶ崎館で練り上げられていった。
 小津が茅ヶ崎にやってきたきっかけは、『父ありき』の脚本家・池田忠雄と柳井隆雄が茅ヶ崎の住人であったことにある。
 その後、タッグを組む脚本家が野田高梧に交代してからも茅ヶ崎館を使い続けた背景には、松竹のスタジオが大船にあったことも関係しているようだ。茅ヶ崎という地は大船撮影所から近すぎず、かといって遠すぎもしない適度な距離にあって、なにかと都合がよかったらしい。
 さらに、茅ヶ崎館近くの砂浜は、6つの作品でロケ地にもなった。『長屋紳士録』(1947年)で飯田蝶子が坊やと追いかけっこをする砂浜も、『麥秋』の終盤で原節子が三宅邦子を手招きする波打ち際も(あのシーンがとにかくすきだ)、どちらも同じ茅ヶ崎の浜辺なのである。ロケ地とは違うが、『風の中の牝鶏』(1948年)の「あの」階段のセットが、茅ヶ崎館の階段そっくりだという逸話もある。

 本展では、3つからなる展示スペースのうち、最後のいちばん小さな部屋が、茅ヶ崎との縁にあてられていた。
 池田忠雄の遺品や、茅ヶ崎ロケの貴重な記録写真とともに、茅ヶ崎館の「二番」を再現した一角も。こちらは撮影可とのことで、一枚。

右の火鉢や机上の食器、そのほか七輪、茶箪笥などが、小津が持ち込んだまま二番の部屋に残された。この火鉢で湯を沸かし、熱燗を楽しんだという(昼間っから)


 ——順序があべこべになってしまったが、この茅ヶ崎に関する展示室ではなく、1階と地階のより大きな2つの展示室が、本展の主な会場となっている。
 次回は、そのもようをお届けするとしたい。(つづく


茅ヶ崎市美術館の敷地は実業家・原安三郎の別邸跡で、その跡が一部に残っている。原は浮世絵のコレクターとしても知られる


 ※茅ヶ崎館のホームページ。逸話が満載。

 ※神奈川近代文学館「生誕120年 没後60年  小津安二郎展」の鑑賞記録。


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