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邨田丹陵 時代を描いたやまと絵師 /たましん美術館

 邨田丹陵(むらた・たんりょう  1872~1940)は、近代のやまと絵系の絵師。現代においてはかなりマイナーな存在といえるが、幸運にも「突破口」がある。
 歴史の教科書やテレビで頻繁にとりあげられる、あの大政奉還の絵の作者なのだ。

 完成作は神宮外苑の聖徳記念絵画館に常設展示されており、本展には下絵が出品。

 絵画館には、明治天皇の事績を物語る高さ3メートルもの絵画・80面が陳列されている。作者には、当時を代表する日本画家・洋画家が名を連ねる。
 そのひとりに選ばれ、かつ大政奉還という重要な場面を任された丹陵は、間違いなく大家といえる存在だった。

 本展には、その力量を如何なく示す作品が並んでいた。
 人物画、ことに故事・逸話を踏まえた歴史画が多くを占めている。きわめて、明治的である。武者絵などはたいへん細緻なものだが、現代においては描かれるテーマに馴染みが薄い点も、丹陵が埋もれていった理由のひとつだろう。

 そういった明治の画家はあまたいるけども、丹陵の場合は、なにより「日本画」に与(くみ)しなかったこと、さらには一線を退くのが早かったことが大きい。
 丹陵の生没年(1872~1940)を確認して意外に思われるのは、江戸時代の延長線上にいる「旧派」の丹陵が、幕末でなく明治生まれだということ、横山大観より4つも年少であること、大戦中まで存命していたことだ。それくらい、守旧的な明治の画家というイメージが強くある。
 このあたりの、「日本画家」と呼ぶにはややためらいがある近代の「旧派」絵師たちに関しては、近年、散発的ではあるがじわじわと光が当たりつつある。
 丹陵の同志であった寺崎廣業、小堀鞆音などもそのひとりで、丹陵と生没年の近い池上秀畝(1874〜1944)に関しては、練馬区美術館で回顧展が開催中。みな地味だが、力量は折り紙つきだ。


 そんな丹陵の本邦初となる大回顧展が、なぜ、立川駅前のたましん美術館で開かれているのか。
 丹陵は、多摩地域ゆかりの作家でもあるのだ。さすがは、多摩信用金庫がつくった美術館。
 関東大震災で焼け出された丹陵に救いの手を差し伸べたのは、立川の地主・砂川家。丹陵は砂川村(国営昭和記念公園の北東)に広大な土地を得て、亡くなるまで過ごした。本展には、砂川家の所蔵作品が多数出品されている。
 震災での下絵や資料の焼失を経て、あの《大政奉還》を仕上げたのも立川の地だった。精進潔斎をして、制作にあたったという。通算で10年あまりの歳月を費やした、畢生の作であった。

 砂川村へ移住後に丹陵が意を注いだのは、菊の栽培。500坪の敷地を菊が占め、菊に関する研究論文もあるという。すでに画壇とは距離をおいて久しく、どちらが本業かわからないほど。
 丹陵の菊栽培について書かれた文章を、どこかで読んだような気がしていたが……解説パネルをみて、思い出した。鏑木清方の随筆だ。『鏑木清方随筆集』(中公文庫)から引用したい。

邨田丹陵さんは、もうずっと前から立川の在、玉川の用水縁に引っ込んで画業の傍ら菊つくりに専念されていた。
 私も一度その丹精の花を見せてもらったことがあるが、これは小菊の懸崖造りばかりで、一切大輪ものは手がけられなかったようである。
 丹陵さんの御説には、大きいのはどうも拵えもの染みて面白くない、中菊、小菊は自然でいい、というやはり絵をかくものらしい好みだと思った

鏑木清方「東籬小話」より

 同じく「絵をかくもの」である清方の感性と合致したようで、丹陵は清方に根分けの約束をしている。

 画と菊のどちらが本業というよりも、丹陵のなかで、ふたつは確かに繋がっていたのだろう。
 こういう、生き方もある。いい話だなと思った。


野菊のいい写真が見つからなかった。丹陵が育てたものとは、だいぶ違うが……マーガレット



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