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同じ手 古美術・骨董のことば

 前回の更新では「同じ手」「同手品」という言葉を、断りなしに何度か使った。「同手品」は「どうてじな」ではなく「どうてひん」である。

 古美術・骨董でいう「手」とは「職人・工人の技術や技巧、その産物」を指す。「手がいい」「上手(じょうて)だ」は、極上の誉め言葉だ。
 「同じ手」「同手」には「同じ時期に、同じ職人・工人ないし工房、環境において製作されたとおぼしい」といった意味がある。同一性や共通性が、ほぼ断定的にいえることがポイント。「同じ手」として指せる範囲は、けっして広くはない。
 書画の分野では、工房作や同じ伝承筆者(「伝・〇〇筆」)による作を比べて、「これとあれは同じ手だ」といったりする。「高野切には3つの手がある」といった具合にも。
 それでも、書画のような「紙もの」と工芸、なかんずくやきものとでは、同時に生み出された絶対数、さらに残りやすさが異なっていて、「同手品」という言葉はほとんど工芸の専売特許のようになっているふしがある。
 ただし、大津絵、泥絵のような分業で量産された「工芸的絵画」に対しては「同手品」が抵抗なく使えて、興味がひかれるところではある。
 おそらくは「個人/工房・分業」という制作(製作)背景の差異が使い分けの基準と思われる。制作(製作)者が完全に特定の個人名に帰する場合は、そもそも「同じ手」などといわなくてよいためである。

 東京黎明アートルームの乾山焼には、すでに美術館に収まっている有名作品と同手のものが多いと書いた。尾形乾山は特定の個人名ではあるが、器体に施された「乾山」の署名はもっと広義に「乾山焼」の製品であることを意味している。だから「同じ手」でよい。
 同手品の多さは古伊万里金襴手にしてもそうで、なかでも、サントリー美術館の《色絵五艘船文独楽形鉢》(重要文化財)と同手の鉢は貴重。

 寸法も上絵の描きぶりもさすがにサントリーのほうに軍配が上がるけれど、なんの問題もなしに同じ手といってよい範囲だろう。寸法の違うことを神経質に気にするならば「寸法が若干異なりながらも同じ手の作」とでもいっておけばよい。

 この鉢のように、展示室のガラスを隔てた向こう側にあるものと同じ手になる作が、巷間にいまだ埋もれているかもしれない。いつか目の前にぽっと出てきて、落手できることすら――とくに工芸の分野では、実際に起こりうることなのだ。
 同手品という概念の存在、掘り出しの魔力が、あてのない射幸心をかきたてる。骨董が一部の人をやみつきにする理由のひとつにこれがある。

 とはいえたいていの場合、「掘り出し物」といったところで「わけあり品」のケースが過半を占める。同手は同手でも、意匠が簡略化され粗雑だったり、発色がいまひとつだったり、ニュウあり、直しあり、降り物あり……などなど、どこかしら質は落ちてしまうものだ。下手すれば模倣作、贋作であることも。
 それでも、あこがれのあの名品とせめて出自を同じくするものをわが手中に納めたい、その一端にでも触れていたいと考える強欲な者が、陶片、残欠といった怪しげな趣味に走るものだが、ここまでくると貧数寄(びんすき)の「病膏肓に入る」といったところか(むろん、自虐である)。

 まったくレベルが違う話ではあるけれど、後発のコレクションで同手品を多くもつ東京黎明アートルームは、そんなわれわれに少しだけいい夢を見させてくれた。古美術の裾野はまだまだ広い。だからやめられない……

※「手」に近い語彙として「仕事」がある。「いい仕事」は中島誠之助さん特有の語彙ではなく、業界内で通じる言い回しである(ただし、広く人口に膾炙してしまったおかげで、かえって使いづらくなったとも思われる)

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