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祈り・藤原新也 /世田谷美術館

 ちょうど昨日・1月29日に閉幕した展覧会である。
 わたしがうかがったのは会期の序盤、昨年12月4日のことだった。
 上野毛の五島美術館「西行 語り継がれる漂泊の歌詠み」展から、レンタサイクルを飛ばして用賀まで。近隣とはいえ、この一見かけ離れたふたつのテーマをハシゴした人がどれほどいただろう……
 いや、案外いたかもしれない。
 平安から鎌倉期に生きた歌人と現代日本の写真家を結ぶものが、なくはないのだ。
 「旅」である。

 藤原新也さんといえば『印度放浪』。
 ガンジス河のほとりで荼毘に付される聖者、川に流される遺体、その川で沐浴する人びと。ありのままのインドのすがたに若者は衝撃を受け、熱狂し、自分の目で見てやろうとインドを目指した。そういえばわたしのまわりにも、「インドに行くと人生観が変わる」と信じて渡印した後輩がいたっけ。
 当の藤原さん自身はインドに拘泥せず、この50年間、被写体を求めて世界じゅうを飛び回ってきた。チベット、台湾、香港、韓国半島、アメリカ、フランス、北欧、そして生まれ育った門司の街……各地で撮影された写真に、東日本大震災の被災地や緊急事態宣言下の東京の光景、著名人のポートレートなどを加えて、本展は構成されている。
 このように書くと年代順やジャンル別の展示のようだが、そうではなかった。作家が現在もっている視点や価値観をもとに、作家自身の手によって再構成されたものである。
 本展は藤原さんの初の回顧展であると同時に、藤原さんの「いま」を示す個展でもあるのだ。現役の作家みずからが深く関わっているからこその、いい意味でお行儀のよすぎない展示となっていた。
 
 写真とともに短い言葉を付すのが、藤原スタイルである。本展でも、扱いの大きい写真には言葉が添えられていた。
 藤原さんの語彙の選択はいたって平易で、それゆえにストレートに響いてくる。写真と言葉とが密接にからみ、相互に響きあい、鑑賞者に訴えかける。藤原さんが熱く支持を受けつづけるのは、このスタイルによるところが大きいだろう。
 白洲正子さんが書いていることであるが、西行の歌につく詞書は、他の歌人よりもずっと長い。その詞書を含めてすばらしいのであり、歌なのだと……
 ハイブリッドというより、渾然一体となってひとつの作品を成すということならば、藤原さんのスタイルとまるで瓜二つではないか。

 リーフレットやポスターに起用された、チベット僧が花束をもつ写真
 この美しい一枚に付された言葉が、とりわけ印象深かった。

寿命とは、切り花の限りある命のようなもの。

 はっとした。いまこの瞬間も、刻一刻と、わたしたちは死に向かって生きているのだから……
 同時に、その切り花の柄を握りしめるチベット僧が、人間よりもはるかに大きな超越的存在に思えてきた。顔の見切れは特定のイメージに帰着させず、アノニマスな神秘性を感じさせるものだ。ほとけさまの掌上に咲く、われわれ。

 藤原さんは最近、書の作品も制作している。いくつか展示に出ていたなかでも、「死ぬな、生きろ」と大書された二曲屏風に衝撃を受けた。
 時節柄、文字面そのまんまに受け取ってしまうものではあるけれど、むろんそんなうわべだけの意味ではない。
 「死んだように生きるな」といったことだ。
 これは禅語の「暫時不在如同死人(暫時も在らざれば死人に如同す)」と同義であり、わたしは真っ先に白隠さんの書を思い出した。
 たしかに、藤原さんは現在も本当の意味で「生きている」人なんだよなぁと思う。それは藤原さんが大画面いっぱいに筆を滑走させるさまからも、よく伝わってくる。

 わたしも動かねば。早く、もっと力強く。そんなふうに思える展示であった。
 みずからの戒めのために、図録を購入して帰った。



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