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速水御舟のねこ・ネコ・猫

 今年の春に相次いで催された、茨城県近代美術館「速水御舟展」と山種美術館「小林古径と速水御舟」展。
 ふたつの展覧会には、”描かれた猫” が何匹もお目見えしていた。御舟は、猫派だったらしい。
 今回はそのなかから、”猫の傑作” をいくつかご紹介していきたい。

 先日、山種美術館で久しぶりに再会した《翠苔緑芝(すいたいりょくし)》(昭和3年  山種美術館)。右隻には、黒猫が座っている。

 このような小さな画像で見ていると、本作の彩色は、ともすれば切り絵のような均質化されたものと認識してしまう。
 しかしながら、近くで拝見すると、ばさばさとした筆(刷毛)の跡がはっきりと観察でき、内に秘めた激しさすら感じさせるのだった。
 べっとりと、厚塗り。濃淡、グラデーションといった効果は抑制されており、岩絵具のはずだが、どことなく油彩画を思わせる粘性を帯びている。

 こういった描きぶりで、御舟はどうやって、黒猫の繊細な毛並みを描写したのだろう?
 下のリンクに、拡大図がある。
 このアップからはまさに「油彩画を思わせる粘性」が感じられると同時に、猫っ毛らしい細くふわりと柔らかい感じや、表面のツヤが巧みに表されている点も、よく理解できるのではないだろうか。


 別の展示室、御舟《炎舞》の隣には、小林古径の《猫》が。

 近寄りがたいオーラ。ひと癖もふた癖もありそうな、知的な猫様である。
 解説によると、古径のデッサンには猫を神格化した古代エジプトの神・バステト神を描いたものが残っており、本作との関連が想定されるという。もしそうならば、とても納得。
 そうでないとしても、猫のこのポーズは思索的であり、脱俗・高踏の風格すら漂わすものだ。
 なにを考えているのか、はたまた、なにも考えていないのか、ほんとうのところはわからないけれど……

※蜘蛛を見つけて、目で追いかけているだけです


 こちらはうちの子、さとる。
 御舟のもとには《翠苔緑芝》に描かれた黒猫、さらには白猫とともに、さとると同じキジトラもいたらしい。
 正確には、さとるはキジトラの中でも、お腹から鼻までが白い「キジシロ」にカテゴライズされるのだが……細かいことはさておき、これがまあ、速水家のキジトラちゃんにとてもよく似ているのだ(当社比)(色眼鏡)(親馬鹿)。
 茨城の御舟展では、そのキジトラを描いた2点が並んで展示されており、壮観であった。
 京都・福田美術館の《春眠》と愛知・豊田市美術館の《菊に猫》。そのあいだに立ち、おとなしくお留守番をしているわが子を思う……

 この2作、制作年は1年違いと近い。描かれるのは同じキジトラ種ではあるものの、描きぶりの違いゆえか《菊に猫》のほうが幼く、敏捷で柔軟そうにみえる。あるいは、親猫と子猫であろうか。
 《翠苔緑芝》の黒猫といい、キジトラの描き分けといい、御舟の筆は千変にして万化、きわめて変化に富んでいることが、この猫たちから把握できよう。

 ——御舟が40歳で没する前年・昭和9年にも ”猫の傑作” がある。
 大分・二階堂美術館が所蔵する《蝶に戯れる猫》である。

 寝そべり、後ろ脚を投げ出して、くつろぎモードの猫さん。はためく蝶に、たまらず右前脚を伸ばした。一撃を難なくかわした蝶々は、どこ吹く風でひらりひらり。
 猫もこれ以上、深追いする気はなさそうだ。前脚を引っ込めて、なにごともなかったかのように、またくつろぎだすのであろう……

 そこまで想像できてしまうのは、一瞬を捉え、簡潔きわまりない線描と彩色で表現した御舟のたくみさゆえであるとともに、わたしがふだんから猫と密に接しているからでもある。うちのさとるも、こんな格好をするのだ。

決定的瞬間


 ——猫と暮らしていると、猫の絵が、さらによくわかってくる気がする。
 猫を絵にする人は、われわれと同じく、猫を深く愛していると思われるからである。
 少なくとも御舟は、そうであったろう。それだけは、確信を持って言えそうだ……

よくある模様だけども……似ているといえば似ている


 ※あの「大分むぎ焼酎・二階堂」の二階堂酒造による美術館



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