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古代オリエント 創造の源 /松岡美術館

 白金台・松岡美術館のコレクションは、明清の中国陶磁をはじめとする東洋陶磁、中国絵画・工芸、西洋絵画、日本の近現代絵画、アジアの石仏、古代オリエントや古代ギリシア・ローマの遺物……と、非常に多岐にわたっている。
 これらは分野ごとに部屋を分けて展示されており、帰る頃には、性格の異なる複数の美術館を巡ってきたような満腹感を覚えることになる。
 今回も2階の企画展示室で「モネ、ルノワール 印象派の光」と「江戸の陶磁器 古伊万里展」を観たあと、1階の常設展示へ。
 いつも、なにげに楽しみにしているのが、古代オリエントの部屋。「創造の源」と題される展示が開かれていた。

 はるか遠い時代の人びとが生み出した造形は、現代のわれわれの目には、ときに “新しい” ものとして映る。この背景には、ふたつの捉え方があるように思う。
 その造形が、ストレートに写実性を追い求めようとしているものであれば、後代の技術、殊に写真や映像などにはどうしても太刀打ちできない。
 一生懸命、忠実になにかを写そうとしている。しかし技術が、その意図に追いつけていない——現代の鑑賞者としては、その稚拙さに「味」や「かわいげ」を見いだすこともできよう。逆に、存外にうまくできていれば、ギャップゆえに「驚く」ことになる。
 これがひとつめの捉え方。

古代メソポタミアのテラコッタ《地母神像》(北シリア・紀元前2000年紀)。「拙なる表現」としてのかわいらしさもたしかに感じるけれど、それ以上に畏怖を感じた

 もうひとつは、そもそも目指しているものが写実性とは異なっている、土俵の違う造形である。
 目の前に厳然としてあるなんらかの存在・かたちではなく、もっと抽象的な「なにか」の造形化を志向している。あるいは「なにか」を強く意識した結果、目の前にあるものが極度に単純化されたり、奇異なかたちで表されたりする。こういったものだ。
 その「創造の源」の正体がなんであるかは、当時の信仰、環境、社会、生活感情、また考古学の成果といったものに照らさなければ、わからない。いや、正確には「わかる」ことすらできず、せいぜい「近づく」しかできない……
 このような、現代とはかけ離れた意識のもとつくられた未知の存在に対して、人はしばしば新鮮な感興をもよおす。

 今回の展示では、主に後者に近いと思われる造形物にスポットが当てられていた。

《女性像》(ギリシア・紀元前2800-2300年頃)。エーゲ海に浮かぶキクラデス諸島では、このようなきわめて純化された大理石の人物造形が生み出された
《ヴァイオリン型偶像》(ギリシア・紀元前3200-2700年頃)。楽器ではなく、人体のラインをデフォルメしたものと考えられている


 白く大きなマットレスの上で、カウチポテト的にくつろぐ人物が現れた。
 しかも、すごく小さい……長さ8.4センチの、トルコの小人である。

《横たわる女人像》(トルコ・紀元前5600年頃)

 黒い塊に目を凝らしていくうちに、「ヘンリー・ムーア!」と叫びたくなった(踏みとどまった)。
 お隣の部屋にある、ヘンリー・ムーアの巨大なブロンズ彫刻《横たわる女、肘》(1982年)の造形を髣髴とさせたからである。
 キャプションに目を遣るとやはり、ヘンリー・ムーアのことが真っ先に言及されていた。このトルコの小人やそれに類するものが影響源ではないにせよ、ムーアもまた、プリミティブな造形に大いに感化されたひとりだった。

テグスでたすき掛け。縛られた小人

 ※来年、国立新美術館で観られるマティスの切り絵にも似ている。マティスも、プリミティブな造形を好んだ。


 ——ここにきて、展示のタイトルにあった「創造の源」が、また別の意味を示しはじめる。
 すなわち、古代の造形は、それを観た近現代の美術家たちにインスピレーションを与え、新たな「創造の源」となったのだ。
 ムーアは中南米の古代文明に強い影響を受けているし、キクラデスに刺激された近現代の作家は、ピカソやブランクーシ、モディリアーニなど枚挙にいとまがない。

 太古の造形を顧みることは、未来をえがくことにつながりうる。それは、ムーアやピカソの時代にかぎらず、現代においても変わらないだろう。
 そんなことを思いながら、また彫像を、ためつすがめつ観るのであった。


小石川後楽園のユリ



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