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向島さんぽ 石鹸の香りに誘われて :1

 ――とある日本画家から、話をはじめたい。
 仮に名前を「T」とでもしておこうか。

 Tは大正期から昭和30年代にかけて活動し、画壇ではそれなりの存在感をもっていたらしい。
 現在ではその名を耳目にすることは少なく、美術館で作品が展示されているのを観たことは、この人を気に掛けてきた美術館狂いのわたしですら、一度としてない。素封家のお宅の床に蛙のお軸が掛かっているのを見つけたことはあるが、所蔵者は作家の名を認識していなかったし、名を聞いても薄いご反応。そんな絵描きである。
 Tは花鳥画をよくし、蛙だとか魚、農耕の風景、いで湯の情景なども好んで描いた。画風は簡潔にして軽妙、池大雅や、近いところでは小川芋銭などを思わせる文人肌の筆である。
 戦後、老齢に達するほどにまろみを帯び、崩れた、温かみを増した絵となっていってこの傾向を強めるが、別号を使った大正期に近い作は、時代の風をよく反映して切れ味するどく、霊妙さに緊張感が相混ざった影のある作となっている。速水御舟だとか、小茂田青樹の絵を思い浮かべてくださるとよいかと思う(御舟とは、じっさいに交流があった)。後者の傾向のほうが、個人的にはすきだ。

 ふしぎな縁もあった。
 かつての自宅から歩いて行けるくらいの場所で、Tの弟子という人物が、自作を飾る小さな美術館を設けていたのだ。どうも、そのお弟子さんの書きぶりからすると、Tもまたわたしのご近所さんだったらしい……少なくともTが、その美術館やわたしの自宅があったのと同じ市内で没したことはわかっている。

 そういった奇縁を抜きにしても……というかそんな事柄が些末と思えるほどに、わたしにとって、Kの絵には惹かれるものがあるのだった。
 Kの名を画商に告げたとて、ほんとうに誰ひとりとして反応がないのだけれども、Tの絵を掛けておけば、誰しも「ほう」と目を留める。名からでなく絵から入れば、ちゃんと響く。
 制作は旺盛だったとみえ、現在でも作品の流通数は多い。それゆえに、古書店やヤフオクでも、驚くほど安価で作品を入手することが可能なのだった。一点、二点と、精選して落手していった。
 今後、なにかの拍子に世に知られるようなことがあれば、それをきっかけとしてたちまち市場が形成されるであろう。けっして派手でもなければ、キャッチーでもない。けれども、いい絵を描く画家なのだから。

 ――Tのプロフィールを見ると、Tの実家は「向島で石鹸の製造販売業を営む」とある。
 このほど、現地・向島に所在するすみだ郷土文化資料館で「すみだの石鹸」という特集展示が開催中と聞いて、わずかな期待をいだきつつ、会期終了当日の午後に滑り込んできた。
 結論からすれば、Tにつながる手がかりは展示のどこにもなかった。
 それでも、向島という、近世・近代の産業と文化の糸が複雑に絡み合った濃厚な土地が放つ魅力の一端を感じることができたのは、大きな収穫であった。
 (つづく



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